2023年12月3日 礼拝説教 「共におられる神に」
聖書: イザヤ書 7章1~14節
Ⅰ.はじめに
今日から教会の暦では待降節(アドヴェント)、アドヴェントとは「到来」「やって来る」という意味です。「やって来る」のは救い主の「降誕」(御子である神が人となられたこと)と「再臨」(御子イエス様が再び来られること)です。この2つの「到来」の意味を思い、「再臨」に備えて過ごすのがアドヴェントの期間です。主のみことばに共に聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.心が揺らぐとき(イザヤ書 7章1~9節)
『聖書』に記されている人々は実に様々で、リアルです。時代も場所も今の日本とは離れていますが、『聖書』の人々の行動や心は、今の私たちと共通しているように感じます。先ほどお聴きした場面は、いつのことでしょうか?「ユダの王アハズの時代」(1節)とあります。それは紀元前730年代、約2750年前です。何があったのか?場所は西アジアで、アラム(今のシリアあたり)の王とイスラエルの王の連合軍が、ユダの首都エルサレムに攻めて来たのです(1節)。人々の心はどうなったか?「林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」(2節)とあります。人々は平安を失ったのです。すでに北と南に分裂していたとは言え、兄弟関係にあった北のイスラエルがアラムと組んで攻めて来たのもショックだったでしょう。
その時、神様は預言者イザヤに語られました。何を言われたか?一つ目は、息子シェアル・ヤシュブ(当時5,6歳)を連れてアハズ王に会いに行くこと(3節)。神様は、王が「水道」の端、つまり水源に水の量を確かめに行ったのをご存知でした。攻めて来る敵に対し、水を確保するためかもしれませんが、神様が共にいるはずのユダの国王がまっさきに行くべき所はそこだったのでしょうか。二つ目は、「恐れるな」と王に言うこと(4節)。三つめは、恐れる必要がない理由です(7~9節)。アラムのかしら(首都)はダマスコ、そのかしら(王)はレツィン(8節)と言われ、9節で似た言い方がされたのは、「ユダのかしら(王)は誰か?」と考えさせるためであり、その答えが恐れる必要がない理由なのです。つまり、ユダの王は神。そこは「神の王国」です。イエス様を信じる者もまた、「神の王国」の国民とされました。神様が自分の王であり、生活の中心ならば、問題に囲まれても、そこは平安ではないでしょうか。なぜなら、「神の王国」を打ち負かせる敵はないからです。それこそが「神の王国の平安」です。問題は、自分の生活を支配する王が、神であるかどうかです。
2.神が共におられるしるし(イザヤ書 7章10~14節)
預言者イザヤは神様に言われた通り、アハズ王に会いに行き、神様のことばを伝えました。すると、さらにアハズ王に告げられたことがあります。11節を読みましょう。「しるしを求めよ」、つまり、恐れないでよい保証を求めよということでした。王はどう答えたか?彼は「主を試みません」と言って断ります(12節)。これは表面的には信仰深そうですが、神様が求めよと言われたのに断ったのは失礼です。神様の介入を拒んだことになります。彼は自分を変える気がなかったのでしょう。
今の私たちはどうでしょうか?せっかく神様が私たちの最善を思って働きかけているのに、それを断ってはいないでしょうか。今のままの自分の生活がよいとも思わないが、今の生活を変えたくないからかもしれません。『聖書』には心惹かれるけれども、神様を信じるとなると、自分の生活が変わるのではないかと、変化を恐れ、未知の世界に不安を感じて、その一歩が踏み出せないのかもしれません。
そのようなアハズ王に、それでも見離さず、あきらめず、神様が語られたことは何か?14節を読みましょう。それは、神様が与える「一つのしるし」、処女が身ごもり、男の子を産み、その名を「インマヌエル(神はわれらと共におられるという意味)」と呼ぶという「しるし」でした。処女から生まれるこの男の子とは誰のことでしょうか?15~17節を読むと、イザヤは近い将来に生まれる子どもと考えているようです。その子が善悪の区別を知る2~3歳になる前に、今攻めて来ようとしているアラム(シリア)とエフライム(イスラエル)は滅びると言われています(16節)。事実、この2年後、その通りになったのでした。
「インマヌエル(神はわれらと共におられる)」と呼ばれる男の子とは誰か?それは、イザヤの時代から約700年後、今からほぼ2023年前にお生まれになったイエス様です。「新約聖書」のマタイ1:18~25を読みましょう。その子は「イエス」(主は救いという意味)と名づけられました。このイエス様の生涯そのものはまさに、「インマヌエル(神はわれらと共におられる)」と呼ばれるにふさわしいのではないでしょうか。
Ⅲ.むすび
私たちは自分で生きているようで、寿命を自由に延ばすことができません。私たちは生かされています。生まれさせてくださったのは神様です。ならば、この神様に信頼し、神様と共に過ごすのが、本来のあり方ではないでしょうか。なのに、私たちがこの神様に感謝せず、導かれることを拒み、日々の生活を自分の思いを実現する「自分の王国」のように過ごしているとしたら、神様に対しては恩知らずな姿ではないでしょうか。それを『聖書』は「罪」と呼びます。イエス様はその「罪」に気づかせ、そこから私たちを救い出すために十字架で死なれ、3日目に復活されました。イエス様を救い主として自分に迎えるとき、私たちは「自分の王国」から、「神の王国」の民へと移し替えられます。そのあとも問題は起きます。しかし、問題に囲まれても揺らぐことのない「神の王国の平安」があります。それは、神様の支配や導きを受け入れ、自分が変えられていくゆえの平安です。神様の約束通り、おとめマリアから生まれたイエス様は「インマヌエル(神はわれらと共におられる)」ということをいつも保証するしるしです。では、私たちは、神様と共に過ごしているでしょうか?神様に導かれて変えられているでしょうか?
(記:牧師 小暮智久)