2023年10月22日 礼拝説教 「教会なのに、なぜ?」

聖書: 使徒の働き  6章1~7節

Ⅰ.はじめに

 「教会なのに、なぜこんなことがあるの」と悩んだことがあるでしょうか。「同じ教会の、同じクリスチャンなのに、なぜこんな人がいるのだろう」と思ったことがあるでしょうか。教会だからこそ、すべての人が招かれている交わりだからこそ、自分とは違う人がいるのは当然であり、実は自分が誰かに「なぜ、こんな人がいるの」の「こんな人」と思われているかもしれないという意識は必要かもしれません。

 私は先月、岐阜で開かれた「第7回 日本伝道会議」に参加しました。参加者約1200名とのこと、初めての出会い、久しぶりの再会など、楽しく有意義でした。お祈りを感謝します。今回のテーマは「『おわり』から『はじめる』宣教協力」。世の「おわり」を見つめつつ、各教会や各教団が互いに伝道の協力を「はじめる」ことができるようにという祈りをもって、各地に派遣されていきました。そこで語られたみことばからのメッセージを忘れることができません。メッセージの一つは「聖霊は教会を不快な交わりにする」というものでした。教会には、すべての人が招かれています。お互いに同じクリスチャンだと思っていても、そこには想定を超える違いがたくさんあり、時に交わりの中で問題が起き、交わりは不快なものになる。それは教会に様々な人が集ってきたゆえの問題であり、不快なことであり、神様はそれを用いて教会をさらに成長や成熟をもたらそうとしていると語られました。みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.教会の問題(使徒の働き 6章1節)

 今から約2000年前、初代の教会にもさまざまな違いのある人々が集っていました。その違いのひとつは「ことば」でした。同じユダヤ人でもギリシア語を使うユダヤ人もいれば、ヘブル語を使うユダヤ人もいたのです。ことばが違うということは、文化や習慣も違うということにもあるでしょう。その違いが原因で、教会の中に「差別」が生まれてしまったのです。1節をお読みします。ギリシア語を使うユダヤ人のやもめ(夫と死別した女性)に対する食事の配給が、ヘブル語を使うユダヤ人のやもめに対する食事の配給と比べて、なおざりにされていたのです。具体的には、量が少なかったのかもしれませんし、質が落ちていたのかもしれません。いずれにせよ、教会の中で差別が行なわれてしまった。悲しいことですが、現実です。教会なのに、なぜ、こんな差別が起きたのでしょうか?ことばが違っていたからです。それに伴い、文化や習慣にも違いがあり、その違いが相手の立場に立つことをむずかしくしたのではないでしょうか。

 今の教会の私たちにも、さまざまな違いがお互いにあります。ことばの違いもあるでしょう。私は関東で育ちましたから、関西のことばでわからないものがありました。「自分はどうする?」と聞かれた時、自分のことが聞かれたとは思えませんでした。関東では「あなたは(きみは)、どうする?」と聞きます。「自分のことを自分で聞くなんて変だなあ」と感じたのでした。お互いに違いがあります。苦手なもの、苦手な人も違うでしょう。不快なことがしょっちゅう起きる、それが教会です。それは、教会がすべての人に開かれ、様々な人が集っているしるしとも言えるのではないでしょうか。

2.そこで、どうする?(使徒の働き 6章2~6節)

 「そこで」(2節)ということばは重要です。差別が行なわれているとわかった時、教会はどうしたか?いくつかの選択肢があったでしょう。無視する、ごまかすこともできます。先送りすることもできます。しかし、すぐに問題と向き合うこともできるのです。

 このとき、教会は、特に中心的なリーダーである12使徒は、教会のみなを集めて、こう言いました。2~3節をお読みします。12使徒が優先したものは、「神のことば」(2節)です。神のことば、『聖書』が読まれる場、今で言えば「礼拝」とも言えるでしょう。それを優先するために、夫と死別した女性たちへの配給のための奉仕者を立てることにしたのです。これが、今の教会で言えば「教会役員」のはじめです。初代の教会は、不快な苦情という問題と向き合い、それを乗り越えようと、役員を立て、神のことばを優先したのでした。

 今の私たちはどうでしょうか?自分が不快だと感じることが教会の中にあったら、どうするでしょうか?無視する、ごまかすこともできますが、向き合うこともできます。神のことばを優先するために、問題と向き合うなら、それは成長のチャンスとなり得ます。

3.こうして、教会は(使徒の働き 6章7節)

 その結果、教会はどうなったでしょうか?7節をお読みします。「神のことば」が広まっていったというのは印象的な表現です。教会の人数が増えたということよりも先に、神のことばが広まっていったということが先に書かれています。神のことばを優先したので、神のことばが広まっていき、その結果、エルサレムで弟子の数、つまりイエス様の弟子の数が非常に増えた。しかも、「祭司たち」というおそらくヘブル語を使うであろう人々も、最初の場面で言えば、差別してしまった側の人々もイエス様を信じていったのです。これは、神様の不思議な恵みのみわざではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 「いま」というこの時は、「終わり」に向かっている途上の時です。私たちの教会も途上にあります。途上には、様々なトラブル、不快なことが「教会」の課題として起こります。たとえば、「教会」は最初、イエス様の弟子たちだけでした。そこに様々な人が加えられますが、ユダヤ人がおもでした。そこにギリシア人やローマ人など異邦人が加わります。お互いにことばも文化も異なる人々ですから、トラブルや不快なことが生じました。「教会なのにどうして、こんな問題が起きるのか」と悩んだかもしれませんが、すべての国の、すべての民族、すべての人々が救いに招かれ、「教会」に招かれている以上、不快なことやトラブルが起きるのは当然です。それは、自分の感覚や考えの狭さに気づき、イエス様の愛の広さを学び、身につける機会となります。むしろ、不快なことが起きるのは、それだけ、その教会にさまざまな人がいられるということの証拠であり、その教会がそれだけ成熟してきて来ている証拠とも言えるのではないでしょうか。「教会」の「終わりの日」、完成の日、それはヨハネも黙示録に書かれています。特に黙示録7:9,10をお読みします。その日を待ち望みつつ、「いま」の教会で不快なことを避けずに向き合い、自分とは違う人々と向き合い、自分を知り、イエス様の愛をいただいてともに進むお互いとされようではありませんか。

(記:牧師 小暮智久)