2023年7月2日 礼拝説教 「主にある交わり」
聖書: 使徒の働き 2章 42節
Ⅰ.はじめに
2023年の半年が過ぎました。この半年間は、どのような日々だったでしょうか。
今年度の私たちの教会のテーマは「キリストのからだである教会」です。今年の後半が始まって最初の主の日である今日、改めてこのテーマを考えてみましょう。『聖書』は「教会はキリストのからだである」と言っています(Iコリント12:27)。教会がキリストのからだとは、どういうことでしょうか。イエス様を信じて、私たちは教会の一員とされました。自分がキリストのからだの一部とされたとは、どういうことでしょうか。
そもそも、教会って、何でしょうか。この場合の教会とは、建物のことではなく、教会のメンバーひとりひとりのことです。自分にとって教会とは何でしょうか。なぜ、集まるのでしょうか。また、教会にとって、自分とは何でしょうか。教会という集まりの中で、自分はどう過ごしたらよいのでしょうか。今朝は、今から約2000年前の最初の教会の姿に注目し、最初の教会の人々がどのように過ごしていたのかをともに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.教会の姿と「交わり」(使徒の働き 2章42節)
最初の教会の人々は、どのように過ごしていたのでしょうか。42節をお読みします。
「使徒たちの教えを守り」とは、イエス様の弟子たちから主イエス様のみことばを聴いて、それを大切にし、実行したということです。
「交わりを持ち」とは、「分け合う」とか「共有する」という意味です。
「パンを裂き」とは、聖餐をいただいたということです。聖餐は、一つのパンを裂いてみなで分け合い、一つの杯からみなで分け合って飲みました。そのようにして、同じイエス様のからだ、同じイエス様の血によって養われるということが行なわれたのでした。
「祈りをしていた」とは、神様にお話しすることであり、神様に聞くことです。祈りは、神様との会話です。特に、最初の教会は、ともに祈ることを大切にしたようです。「天にますますわれらの父よ」という、「私」ではなく「私たち」という祈りです。
こう見てくると、「使徒たちの教え」「聖餐」「祈り」を大切にして過ごした人々の間に、「交わり」というものがあったということが見えてきます。みことば、聖餐、祈りを個人でなく、教会のみなでともに、「分け合い」「共有」した姿です。つまり、「交わり」とは、単に教会の誰かと親しくなるということではなく、神様の家族として、礼拝やみことばに聴くこと、聖餐、祈ることを「ともにする」こと、その経験を「共有」することです。
その意味での教会の「交わり」とは、自分で選んだ友人とは違い、与えられた恵み、神様からの賜物です。ボンヘッファーという人はこう言いました。「キリスト者の交わりとは、日ごとに奪い去られるかも知れない神の恵みの賜物であり、ほんのしばらく与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかも知れないものである」(『共に生きる生活』,p.7)。彼がナチス・ドイツの時代にヒトラーに抵抗し、捕らえられ処刑されたことを思うと、さらに重みを感じることばです。今の私たちも、コロナ禍で礼拝に集まれない時期を通ったことで、「交わり」が奪い去られるかも知れない賜物という感覚はわかるのではないでしょうか。教会の「交わり」は、神様からの貴重な賜物。感謝して参加しましょう。
2.「いつも・・・していた」とは(使徒の働き 2章42節)
最初の教会の人々が大切にしていた「使徒の教え」「交わり」「聖餐」「祈り」について、「彼らはいつも・・・していた」と書かれています。これは何を意味しているのでしょうか。『聖書』の「新約聖書」の部分は最初、ギリシア語で書かれました。ほかの日本語訳の『聖書』と比べてみると、この「いつも」が「24時間いつも」という意味なのか、違う意味なのか、見えてきます。この「いつも」は、口語訳という翻訳の『聖書』では「一同はひたすら」と訳され、新共同訳の『聖書』では「彼らは・・・に熱心であった」と訳されています。「熱心」とは熱い心、しかも一時的な熱心ではなく、「ひたすら」という、継続的につづけるという意味での「いつも」という態度がここでは強調されています。つまり、最初の教会はこの4つを「ながーくつづける」という意味で「いつも・・・していた」。約2000年にわたり、今日まで続けられてきた。その背後にあるのは「主の熱心」(イザヤ9:7)です。一時的な熱心ではなく、いつも、つづけて、私たちに注がれている主の愛です。
最初の教会の人々が長く続けていた「交わり」は、「主にある交わり」とも呼ばれます。
その源、出発点は主にあります。主である神様は、父、御子、聖霊の三位一体の神。父、子、御霊の互いの間で「交わり」をもっておられます。神様は、その「交わり」に招き入れようと、私たち人をお造りになられました。最初の人アダムとエバが神様に背いても、この神様の思いは変わらず、三位一体の神の交わりの中に回復しようと、御子を人としてこの世に派遣されました。それがイエス様です。イエス様は私たちのために十字架で死なれ、葬られ、3日目に復活され、イエス様を救い主と信じる人は誰でも、神様の子どもとされ、神様との「交わり」を回復されたことを、聖霊が保証してくださいます。
ですから、回復された「交わり」は、神様と自分との「交わり」であり、イエス様によって神様とつながったという意味で「主にある交わり」と言われます。
それだけではありません。イエス様を信じたほかの人がいます。イエス様を信じたほかの人と自分とは、イエス様によって神様の家族としてつながりました。イエス様を通してつながったお互いの「交わり」という意味で「主にある交わり」と言われます。
私たちそれぞれは、ひとりで主の前に立ちます。だれも自分に代わってくれません。その意味で、主と自分との「交わり」が深められるための孤独、沈黙が必要です。
と同時に、イエス様を信じたお互いは、教会という「主にある交わり」の中で生かされています。教会の他の人と、自分の思いや疑問や経験をことばで語り合うことが必要です。ボンヘッファーが「交わりと孤独」について述べた次のことばは、自分で何度も味わい、また、今日の礼拝後の「主にある交わり」の時に誰かと語り合ってみてはどうでしょうか。「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。」(『共に生きる生活』,p.72)。
Ⅲ.むすび
最初の教会の人々が「分け合い」「共有」したもの、それは「自分の時間と居場所」と言えるでしょう。「ライブ配信やリモートの礼拝」と「礼拝堂での礼拝」の違いは、自分の時間も居場所も、その両方を互いに分け合い、共有できるか、ではないでしょうか。今日は主の聖餐をともにいただく日。イエス様が私たちのために、そのからだを、そのいのちを差し出してくださったことを、私たちは自分のからだを差し出して、教会のほかの人とともに神様の前に出てともに味わう、まさに「主にある交わり」です。自ら進んで「主にある交わり」に参加して、永遠に続く「交わり」に生かされましょう。
(記:牧師 小暮智久)