2023年6月25日 礼拝説教 「新しい始まり」

聖書: サムエル記 第1 3章10~21節

Ⅰ.はじめに

 日常生活で思いがけないことが起きたとき、どうするでしょうか。思いがけないことは、大きな悩みとなることもあれば、新しい始まりとなることもあるのではないでしょうか。

 この教会の礼拝では、『旧約聖書』の「サムエル記」を昨年1月から少しずつお聴きしており、今日は久しぶりに、前回1月29日の続きの所です。今から3000年ほど前、紀元前1000年ごろという大昔の西アジアで、神様に愛されているイスラエルの人々の現実と、そこに関わることをやめない神様の働きかけが記されています。特に、神様の思いよりも自分の思いを優先していた人々に対して、神様はどう働きかけるのでしょうか?今の私たちに対して、神様はどう働きかけておられるのでしょうか?みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.主に呼ばれたサムエル(サムエル記 第1 3章10~14節)

 その日、サムエルという少年はいつものように、シロという所にあった「主の家」(1:24)と呼ばれる神様を礼拝する場所、自分を教え育ててくれた祭司エリのもとで、神様に仕えていました。サムエルはいつものように、その中心部、神様のご臨在(神様が親しくそこにおられること)を示す「神の箱」が置かれた「主の神殿」(3:3)と呼ばれる部屋で、夜寝ていたのです。すると、思いがけないことが起きる。「主はサムエルを呼ばれた」(3:4)のです。彼はエリに呼ばれたと思って走りますが、呼んでいないと言われます(3:5)。そのようなことが、このあと2度も繰り返されたのも思いがけないことです。祭司エリはさすがに「主が少年を呼んでおられる」と気づき、次に呼ばれたときの答え方を教えたのでした(9節)。

 もう一度、主はサムエルを呼ばれました。4回目です。神様は、このひとりの小さな子どもに働きかけ、ご自分の民に働きかけようとしておられます。しかも、4度目は書き方が少し違っています。10節をお読みします。「主が来て」(10節)とあります。主は、サムエルの所に来られた。「そばに立ち」(10節)という表現は、まさに「臨在」です。すぐそばに、間近に、親しく、そこに立たれたのです。「サムエル、サムエル」と主は二度、名前を呼ばれました。主はアブラハムにも、モーセにも、2度名前を呼ばれました。今の私たちにも、ひとりひとり、名前を呼び、親しく語りかけてくださいます。

 主が語られたことは何か。11節をお読みします。それは、聞く者の両耳に耳鳴りが起こるほど厳しい内容。12節をお読みします。それは、エリとその家族に対する神様のさばきが行なわれることで、2章の後半で登場した「神の人」(27節)が告げたこと。13~14節をお読みします。その原因は息子たちが自分たちにのろいを招くようなことをしたこと。具体的には2:12~17にある主へのささげものを侮ったことですが、その責任は父エリに問われ、それはどんないけにえによっても赦されないと言われたのでした。少年サムエルがじかに主から聞いたことばは、なんと厳しいさばきのことばだったことでしょうか。

2.エリに呼ばれたサムエル(サムエル記 第1 3章15~21節)

 少年サムエルはその後、どうしたか。15節をお読みします。「朝まで」と言っても先ほどの出来事が夜明け直前だったと思われるので、ほんの短い間だったでしょう。彼はいつものように「主の家」のとびらを開けます。新しい朝が来たのです。しかし、彼にとってその日のとびらは、何と重く感じたことでしょうか。昨夜のことをエリに聞かれるのは確実。どのように答えたらよいのだろうか、と気が重かったに違いありません。昨夜のことが「この黙示のこと」(10節)と言われています。「黙示」とは、ただことばだけでなく、幻やイメージなど目で見えるものも伴うメッセージだと思われますが、サムエルには昨夜、主が近くに立ち語られる姿も示されていたということかもしれません。

 予想通り、エリがサムエルを呼びます(16節)。エリはサムエルに、主が語られたことを教えてほしいとお願いします。17節をお読みします。「隠さないでくれ」「もし・・・隠すなら」と、2回繰り返されていて、「隠さずに全部を知らせてほしい」というエリの態度が強調されています。それは、へりくだった態度、謙遜な態度、自分の教え子である少年に語られた主の前に自分もともに出ようとする砕かれた態度ではないでしょうか。

 この恩師のお願いに対し、サムエルはどうしたか?18節をお読みします。「すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった」(18節)。たとえ、それが相手に対する神様のさばきであろうと、自分の心が痛むことであろうと、神から聞いたこと、預かったことを、隠さず、すべて語る。サムエルが預言者として召され、立てられていく、その初めの働きは、自分の先生の罪に対する神様のさばきを告げるという誠につらいことでしたが、彼は見事に、忠実に、預言者としてのつとめを果たしたのでした。聞いたエリはどうしたか?

「その方は主だ」(18節)と、サムエルに語られたお方が主だと認め、自らの罪を認め、責任を認め、「主が御目にかなうことをなさるように」と主のさばきに自らをゆだねたのでした。ここに、神様の前に砕かれた人の姿を見ます。私たちも、主に罪を示されたなら、素直にそれを認め、告白する者でありたいと心から願います。詩篇51:17をお読みします。

 この日の朝、それは、エリもサムエルも共に主の前に出て、主のことばの前に、ともにひれ伏し、ともにおののく朝だったのではないでしょうか。厳しいさばきのことばではあるけれども、ともに主の前に出るという、新しいことが始まる朝だったのではないでしょうか。主のことばがまれであった時代に、サムエルが預言者として立てられていく(19~20節)。それは、主がシロという場所でご自身を現わし、小さな子どもサムエルを通してご自分を現わし、神様の民に働きかけようとされる、新しい始まりだったのです。

Ⅲ.むすび

 今は、終わりの時だと言われます。『聖書』によれば、今から約2023年前、イエス様がこの世界に来られて以降、「終わりの時」に入ったのだと言われています。「旧約聖書」の時代には、神様はモーセやサムエルをはじめ、多くの預言者を立て、人々に語りかけ、働きかけられました。そして、この「終わりの時」には御子イエス様によって、私たちに語っておられます。へブル1:1~3をお読みします。御子イエス様こそ、完全な預言者であり、神様と人との仲介をする完全な祭司です。御子イエス様は、私たちの罪のために十字架で血を流し死んでくださり、3日目によみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に着座されたことにより、私たちの「罪のきよめを成し遂げ」(へブル1:3)てくださいました。この終わりの時、御子イエス様が私たちに語りかけ、働きかけてくださいます。サムエルとともに主の前に出たエリのように、主の前にへりくだりましょう。示された罪があるなら認めて告白し悔い改め、自らが変えられる必要に気づかされたらそれを認め、主に変えられやすい者とされ、主による新しい始まりを日々経験しましょう。

(記:牧師 小暮智久)