2022年11月13日 礼拝説教 「仕事と奉仕と礼拝と」
聖書: エペソ人への手紙 5章10節
Ⅰ.はじめに
先週はどんな1週間でしたか?忙しかった、つらかったという方もおられるでしょう。そんな自分にとって、神様はどんな存在でしたか?何もしてくれなかった、守ってくれたなど、様々でしょう。反対に、神様は自分のことをどう思ったのでしょうか?そんなことわからないと言われるかもしれませんが、想像はできるのではないでしょうか。神様は自分のことを喜んだと思う、悲しんだと思う、何も感じてないと思うなど、これも様々でしょう。これらは、神様と自分との親しさや距離感をあらわしているかもしれません。
この教会の今年度の総主題は「主に喜ばれる教会」で、主題のみことばは「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい」(エペソ5:10)です。イエス様を信じた人は、神様の子どもとされました。神様の子どもにされると、「なぜ、何のために生きるか」という人生観や「なぜ、何のためにこの世界はあるのか」という世界観が変わります。なぜなら、それまでの「自分中心」の考え方では「自分のために人が動き、世界はまわる」という、言わば「天動説」だったのが、「神様中心」の人生観にひっくり返り「何が神様に喜ばれるか」と「自分が神様を中心にまわる」という、言わば「地動説」へと変わったからです。変えられた人生観の中で、仕事と奉仕と礼拝とについて、みことばから共にお聴きしましょう。
Ⅱ.みことば
1.仕事とは何か?(創世記 1章26~27節)
今ここには、これから仕事を選ぶ人、今が働き盛りの人、長年働いて退職された人、特に仕事をしていない人など、様々な人がおられると思います。また、家事や育児や介護なども仕事と言えるでしょう。その意味では厳密に「仕事とは何か」を定義するつもりはありません。ここでは、おおざっぱに報酬をいただく働きや職業を「仕事」と表現します。「なぜ、働くの?」と聞かれれば、生活のため、食べるためのお金を得るためと言う人は多いでしょうし、やりがいや使命感があるから働くという人もあるかもしれません。
自分の心のいやしや安らぎのためなど、自分のために『聖書』を読むのはもちろんまちがっていませんが、イエス様を信じると私たちは神様の子どもとされて、『聖書』の読み方が変わってきます。この世界を造られた神様の視点から『聖書』を読むようになると言ったらいいでしょうか。すると、神様は、この世界や人間をどう見ておられるか、仕事というものをどう考えておられるかが、『聖書』から見えてくるようになるのです。
神様は私たち人間をどのような存在として造られたのでしょうか?創世記1:26~27をお読みします。私たちは「神に似たもの」「神のかたち」として造られたのです。どこが神様に似ているのでしょうか。教会の図書貸出コーナーにある『主にあって働くということ』(唄野 隆編)には、①唯一の神に似て、世界に一つの個性の自分、②創造者である神に似て、創造的に生きる時に満足する自分、③すべての存在の源である神に似て、主体性をもって過ごすときに充実感がある自分、④三位一体の神に似て、独立性を尊重されることと他の人との親しい交わりを求める自分という点が神様に似ていると言われています(p.12~13)。
しばらくのちにアダムとエバは神様に背き、「仕事」には苦しみが伴うようになってしまいましたが(創世記3:17~19)、「仕事」は罪の結果ではなく、本来楽しく喜びだったのです。
神様は人間を、動物など「すべてのものを支配するように」(1:26)と造られました。これが、神様の視点から見た「仕事」の原点です。ここでの「支配」とは暴力的な搾取ではなく、「管理」や「世話」のことで、神様の代理として人間に任された動植物や世界の「世話」や「管理」が、「仕事」なのです。今の農林水産業、製造業、商業、金融、政治、教育、福祉、医療など、様々な「仕事」の意味はここから考えられるのではないでしょうか。
2.奉仕とは何か?(マルコの福音書 10章45節)
「仕事」にも「奉仕」にも「仕える」という文字があります。「奉仕」は「仕え奉(たてまつ)る」と書きます。「奉仕」とは何か?まず、奉仕者の最高の模範に目を向けましょう。マルコ10:45をお読みします。イエス様こそ、そのお方です。イエス様は、自ら進んで、私たちに仕えるために、しかも、ご自分のいのちを与えるという最大の奉仕のために、この世界に来てくださいました。その事実を、私たちは今日、聖餐において味わいます。イエス様の十字架での死には、自発性と無報酬という「奉仕」の特色があらわれています。
このイエス様の尊いご奉仕に対して、応答としてささげるのが教会での「奉仕」です。Ⅱコリント9:7をお読みします。ここには「心で決めたとおりに」という自発性、「喜んで与える」という無報酬の「奉仕」の特色がよくあらわれています。また、「奉仕」は「賜物」と言われる、神様から与えられる恵みのあらわれでもあり、そこには教会での「教師」や「いやし」、「援助」や「管理」(書記や会計なども含まれます)などの多様性(Iコリント12:28)や、それらが組み合わされて教会全体が成熟していく調和性(エペソ4:11~16)があります。
では、選挙などで選ばれる「奉仕」の場合、自発性はどうなるのでしょうか?使徒6:2~5には、みことばを取り次ぐ奉仕に専念する使徒たちとは別に、教会員の様々な必要に仕える7人が、今で言う「教会役員」として選ばれた場面があります。「みことばを取り次ぐ奉仕」が神様の召しによるのと同じように、教会員に仕える人も「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」(6:3)という条件に基づいて選ばれたのでした。つまり、「奉仕」には「自分がやりたいから」という自発性だけでなく、「与えられる役割」という面もあるのではないでしょうか。その意味では、教会の「奉仕」の前提には、条件をつけないで「自分のからだを神様にささげる」という「献身」があり(ローマ12:1)、一般のボランティアとの大きな違いがここにあります。反面教師として見習うべきでない見本として、当時の教会に「主キリストにではなく、自分自身の欲望に仕えている」(ローマ16:18)人々がありました。「主に喜ばれる奉仕」とは何か?それは、主と人への愛を動機として、したいからだけではなく、完璧を目指すのでもなく、誠実で裏表のないあり方ではないでしょうか。
3.礼拝とは何か?(ヨハネの福音書 4章23~24節)
『聖書』で「礼拝」を表わすことばは、「労働する」「仕える」ことを意味するそうです。私たち人にできる最大の「奉仕」、最高の「仕事」とは、「礼拝」ではないでしょうか。神様が喜ばれる「礼拝」とはどんなものか?ヨハネ4:23~24をお読みします。イエス様が再び来られたあと、新しい地で私たちはどんな礼拝をささげるでしょうか?ヨハネ黙示録22:3~4をお読みします。今ここでの礼拝は、新しい天と地での礼拝につながっています。
Ⅲ.むすび
今の自分は仕事も奉仕もできないという方もあるでしょう。私もそうなる可能性がいつでもあります。「何が主に喜ばれることか」(エペソ5:10)と問われるとき、主が喜ばれるのは、何ができるか、できないかではなく、私たちの存在そのもの、そのあり方や態度ではないでしょうか。「自分の存在が礼拝となる生き方」と求めたいです。
(記:牧師 小暮智久)