2022年5月15日 礼拝説教 「主の前」
聖書: サムエル記 第1 1章12~19節
Ⅰ.はじめに
「祈り」とは何か?日本の私たちにとっては、合格祈願、安産祈願など「神への願い」というイメージが強いように思います。『聖書』が示す「祈り」とは何か?それは、「神への願い」だけではなく、「感謝」や「讃美」、「問いかけ」や「相談」、「報告」や「打ち明け話」など幅広いものです。まるで子どもが親に話すように、私たちが神様に話し、神様に聞くのが『聖書』が示す「祈り」であり、「祈り」とは一言で言えば「神様との会話」です。
この教会の礼拝では、『旧約聖書』の「サムエル記」を1月から少しずつお聴きしており、今日は前回2月20日の続きの所です。ここには「主の前」という表現が3回出てきます(12,15,19節)。この表現に注目して、「お祈り」について、共に神様に聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.人にどう思われても「主の前」(サムエル記 第1 1章12~14節)
「ハンナが」(12節)とあります。彼女の夫はエルカナという人で、エルカナにはペニンナというもう一人の妻がいました。ペニンナには息子、娘がいましたが、ハンナには子がありませんでした(2節)。今から約3000年前の紀元前1070年頃、西アジアの死海という湖の西北地域に住むこの一家は毎年、シロという所にある主の家で、主を礼拝し、『旧約聖書』の「レビ記」7章のみことばに従って主にいけにえをささげ(3節)、その後、食事を共にしました。夫はハンナを愛し、食事の時には「特別の受ける分」(5節)を与えていましたが、もう一人の妻ペニンナは子のいないハンナをいらだたせ(6節)、ハンナはつらくて毎年食事もできませんでした(7節)。しかし、この年だけは違っていました。ハンナはその席から立ち上がり、主の宮でお祈りします(9~11節)。どんなお祈りだったのでしょうか。10~11節をお読みします。おそらくはじめは、自分の苦しみを訴え、心の痛みからの救いのために「私にも子どもをください」と願ったことでしょう。しかし、祈りの中で彼女は変えられていきます。「子どもさえ与えられれば」という自分のための願いから「与えられた子どもは主にお渡しします」という神様との約束に変えられていくのです。子を求めているのに、子を渡してしまうというのは矛盾にも思えます。主が「私を心に留め、忘れず」(11節)にいてくださることが、ハンナの願いの中核だったのではないでしょうか。
「ハンナが主の前で長く祈っている間」(12節)とあります。「主の前で祈る」という表現が『旧約聖書』で出てくるのはここが最初なのだそうです。このとき、ハンナは「主の前で」祈りました。この「主の前で」とは、神様のまなざしの中での、神様との直接の個人的な親しい心が通い合う関係を意味する表現です。私たちも祈る時には「主の前」にいます。人にどう思われるかが気になりますが、祈る時には自分は「主の前」にいるのです。みなを代表して人前で祈る時には、祈りのことばや内容に配慮が必要でしょうが、人にどう思われるかよりも、主にどう思われるかを意識し、飾らず、素直に祈りましょう。
このハンナの姿を見ている人がいました。祭司であるエリです(12節)。祭司は彼女が酔っていると誤解し(13節)、酔いをさますよう、彼女を責めてしまいます(14節)。本来なら、祈っている彼女の心の痛みに耳を傾ける役割を果たすはずの祭司が、見当違いの対応をしてしまいます。ここに当時の時代の闇が垣間見えます。宗教的な指導者が堕落し、見るべきものを見ていないという闇です。今の時代はどうか?イエス様を信じる私たちは、キリスト教会は、「人にどう思われるか」だけに捕らわれず、「主の前」に出ているでしょうか?
2.心を注ぎ出せる「主の前」(サムエル記 第1 1章15~16節)
祭司にとがめられ、心外だったであろうハンナは、どう答えたか?15節をお読みします。彼女は謙遜に、冷静に自分のことを話します。それは「心に悩みのある」(15節)状態であること、「ぶどう酒」とは当時は3倍の量の水で薄められたもの、「お酒」とは酔わせる強い酒のことですが、どちらも飲んでいないことです。悩みを酒でまぎらわすことは現代でもよくありますが、彼女が選んだのは「主の前に心を注ぎ出」(15節)すことでした。「主の前に」、主のまなざしの中で、主との心通い合うやりとりの中で、「心を注ぎ出す」の「心」は直訳すれば「たましい」であり、「いのち」とも訳されることばで、自分の存在の全体を洗いざらい打ち明けるということです。それを酒に酔って誰かに話すのではなく、自分を造られ生かしておられる神様に洗いざらい打ち明けることが、「主の前」でできるのです。
16節をお読みします。ハンナはここで、「何を主の前に注ぎ出したか」をエリに話しています。それは「募る憂いと苛立ち(いらだち)」です。今の私たちにとっても「主の前」とは、憂いやいらだちなど、自分の全存在を洗いざらい神様に打ち明けられる所です。
3.共に礼拝する「主の前」(サムエル記 第1 1章17~19節)
最初は酔っていると誤解されたとは言え、「イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」(17節)という祭司エリのことばは、ハンナにとって保証となり支えとなったことでしょう。ハンナは自分を「はしため」と呼んでへりくだり、「あなたのご好意を受けられますように」(18節)と答えます。この「好意」とは「恵み」とも訳すことができ、「ハンナ」という彼女の名前と同じです。彼女は「好意」や「恵み」を受け取りやすいように、自らを低くしていたのでした。それからハンナは食事の席に戻ります。「その顔は、もはや以前のようではなかった」(18節)とあります。夫をはじめ、もう一人の妻も、「いったい何があったのだろう?」と不思議だったのではないでしょうか。
翌朝の場面に3回目の「主の前」という表現が出てきます。19節をお読みします。「主の前」、それは、親しい身近な人々と共に主に礼拝をささげる場でもあります。私たちが毎週、「主の日」、日曜日に共にささげる礼拝もまた、そのような「主の前」での出来事です。「妻ハンナを知った」(19節)とは夫婦の交わりのことであり、「主は彼女を心に留められた」(19節)とはそれまでは忘れていたということではありません。「心に留め」(11,19節)、それは、主がみこころを実現しようと新しいみわざを始められたということです。
Ⅲ.むすび
今の私たちも朝ごとに夜ごとに、「主の前」に出て、主との心通い合う会話を「お祈り」によって経験できます。私たちは、「主の前」でなら、自分を飾らず、おごらず、へりくだって、自分の存在全体を洗いざらい打ち明けることができます。そして、イエス様が復活された「主の日」に私たちは、「主の前」で共に礼拝し、主は私たちを「心に留め」、新しいみわざを始めてくださいます。「主の前」に出られるのは、主イエス様の十字架での死と復活のゆえであることを感謝しようではありませんか。主が共におられる「神の国」の生活は「今、ここで」始まっており、イエス様の再臨ののち、私たちが新しい身体に復活させられ過ごすことになる「新天新地」での生活につながっています。
(記:牧師 小暮智久)