2022年5月8日 礼拝説教 「私たちも変えられる」
聖書: マルコの福音書 10章35~45節
Ⅰ.はじめに
今日は「母の日」です。「母の日」は、アメリカのメソジスト教会で40年近く「教会学校」の教師の奉仕を続けた女性が1905年5月9日に天国に召され、アンナという娘さんがそのお母さんを記念して毎年その日に近い日曜日の礼拝にカーネーションのお花をささげたのが始まりだそうです。この教会では、「母の日」は「両親の日」として覚え、今日は「教会学校」と「主日礼拝式」との合同礼拝です。「教会学校」では今、「イエス様の弟子たち」に注目しています。イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けたということは、イエス様に弟子入りしたということです。弟子にはほかの弟子という仲間がいます。そして、弟子は師匠の指導や訓練を受け、成長して、主であるイエス様に似るように変えられていきます。私たちも変えられていきます。イエス様の弟子たちもはじめは未熟でしたが、段々と変えられていきました。その様子をみことばから見てみましょう。
Ⅱ.みことば
1.弟子たちの願い(マルコの福音書 10章35~37節)
「ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネ」(35節)というイエス様の二人の弟子たちがここに紹介されています。父の名はゼベダイ、ヤコブという兄とヨハネという弟は、どのようにしてイエス様に弟子入りしたのか?マルコの福音書 1章19~20をお読みします。彼らは、ガリラヤ湖という湖の岸辺の舟の中で、魚をとる網の修理をしていました。ヤコブとヨハネは漁師だったのです。自分から進んでイエス様の弟子になったわけではありません。イエス様が彼らをお呼びになったので、二人はイエス様のあとについて行きました。今の私たちがイエス様の弟子となる様子も、これと似ています。自分から進んで教会に行き、洗礼を受けたという人も、親がクリスチャンで親に連れられて教会に行き、洗礼を受けたという人も、どちらであっても、その人を招き、導かれたのはイエス様なのです。
この二人がイエス様について行くようになり、しばらくたち、イエス様からご自分が死刑になることを聞きました(10:33)。弟子たちには、イエス様がなぜ、死刑になるのか、理解できなかったでしょう。その直後、この二人の弟子、ヤコブとヨハネがイエス様に願ったこと、それは何か?35~37節をお読みします。一言で言えば、えらくなりたいという願いでした。自分が認められたい、評価されたいという願いとも言えるでしょうか。なぜ、彼らはこう願ったのでしょうか?彼らの性格や生まれ育った環境とも関係があるでしょう。
今の私たちは、イエス様にどんなことを願うでしょうか?その願いと、自分の性格や自分の得意なこととの関係、自分が苦手だなと思うこととはどんな関係があるでしょうか?
2.イエス様のお答え(マルコの福音書 10章38~45節)
弟子たちの願い、求めにイエス様はどうお答えになったでしょうか?38節をお読みします。自分が何を求めているのかわかっていないと言われたのでした。今の私たちの願いや求めについても、「自分が何を求めているかわかっていない」とイエス様から言われることがあるかもしれません。「わたしが飲む杯」「わたしが受けるバプテスマ」とはイエス様が人々のために死なれることを指しています。ヤコブとヨハネはかんたんに「できます」と答え、彼らはイエス様のために死ぬことになると予告されました(39節)。その上でイエス様は、ご自分の右と左に座る人を決めるのは神様だと言われたのでした(40節)。このことを聞いたほかの10人の弟子は、自分たちだけがえらくなろうとした二人に腹を立て始めます(41節)。ということは、ほかの10人の弟子たちもえらくなりたかったのですね。
同じイエス様の弟子であるのに、その弟子仲間の間で争いが始まりそうなこの時、イエス様はどうされたか?42~44節をお読みします。注目したいのは、イエス様は「えらくなりたいという思い」を否定しなかったということです。成長してすぐれた人になりたい、人々から認められたいという気持ちは誰にでもありますし、それはよいことです。問題は、成長して、すぐれた人になってからどうするか、です。イエス様は「人々の上に権力をふるう」のではなく、「皆に仕える者になりなさい」(43節)と言われました。努力して、先頭に立ちたいと願うのはよいこと、しかし、先頭に立てるほど成長した時には「皆のしもべになりなさい」(44節)とイエス様は言われたのです。それは、イエス様が来られた目的と同じです。45節をお読みします。イエス様は神様なのに、人々に仕えるために来られ、私たちを罪と滅びから救い出すために、十字架で自分の命を与えるために来てくださいました。イエス様の弟子は、イエス様にならい、イエス様に似るように変えられていきます。
3.変えられた弟子たち(ヨハネの手紙 第1 4章7節)
えらくなりたかったヤコブとヨハネという弟子たちは、その後どうなったでしょうか?
兄のヤコブのことはその後ほとんど書かれていません。イエス様に言われた通り、目立たなくても人々に仕える人に変えられていったのでしょう。次にヤコブのことが書かれているのは「使徒の働き」の12章1~2節です。イエス様が救い主だと人々に伝え、教会の中で大切にされていたからこそ、迫害するヘロデ王にじゃまだと思われ、殺されたのでした。イエス様に言われた通り、ヤコブは「杯」を飲み、イエス様のために死んだのでした。
弟のヨハネはどうなったか?「使徒の働き」にはペテロと共にイエス様のことを伝える様子が書かれています。ヨハネはその後、エペソという町で教会に仕え、「ヨハネの福音書」、「ヨハネの手紙」を3通、さらに迫害されて島に流され「ヨハネの黙示録」を神様に示されて書きました。ヨハネがそれらの中で強調しているのは「愛すること」、特に、イエス様の弟子が「互いに愛し合う」ということです。「ヨハネの手紙 第1」の4章7節をお読みします。ヨハネは若い頃、ほかの人よりえらくなって、力をふるいたかった。自分の中に人に仕える愛がありませんでした。愛は自分の中からは絞り出しても出てこない。「愛は神から出ているのです」。この神様からの愛によって、ヨハネも変えられたのでした。
Ⅲ.むすび
自分のことで変えられる必要があると思うところがあるでしょうか?自分の弱さだと感じるところは、場面が変わると人を励まし慰める強さになることもあります。反対に自分が得意だと思う強さは、場面が変わると人を傷つけ痛めつけてしまう弱さになることもあります。イエス様は、世界にただひとりのあなたという貴重な存在を通して、あなたしか届かない人に、ご自分の愛を示そうとしておられます。自分を通してイエス様が働きやすいように、変えられていきましょう。ヤコブとヨハネのように自分がどんなにえらいかを示すためではなく、私たちのために十字架で死んでくださったイエス様がどんなにすばらしいかを示すイエス様の弟子として、人々に仕える者とされましょう。
(記:牧師 小暮智久)