2022年4月10日 礼拝説教 「なぜ十字架か?」

聖書: マタイの福音書 27章27~54節

Ⅰ.はじめに

 先週はどんな1週間でしたか?今、つらいことや悩みは何でしょうか?そうお聞きするのは、私には限界がありますが、おひとりおひとりの状況に自分の心を寄せて、神様を礼拝するこの時を共に過ごしたいからです。そして、誰よりもあなたのことを知っておられ、つらいことや悩みをわかっていてくださる神様というお方に、共に心を向けたいからです。

 さて、あなたが「十字架」を初めて見たのはいつだったでしょうか?私にとっては、東北の宮城県に住んでいた子どもの時、家の近くを母と歩いて、あるお寺の裏手にある墓地に、なぜか「十字架」のついたお墓があり、母に「あれは、なに?」と聞いた時がそうだと思います。母も私も教会に行く前の出来事です。母は「あれは十字架と言って、クリスチャン(キリシタン)のお墓よ」と教えてくれたと記憶しています。なぜ「十字架」について取り上げるかと言えば、今日から全世界のキリスト教会は「受難週」という1週間を過ごすからです。「受難週」とはキリストが十字架に向かい、そこで苦難を受け、死なれたのが何のため、誰のためかを想いつつ過ごす7日間です。『聖書』にともに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.身近にある十字架

 「十字架」や「十字」「クロス」のマークは割と身近な所にあるのではないでしょうか。たとえば病院、薬局、赤十字、工事現場、救急箱などにも十字のマークはありますね。色は様々かもしれません。病院の「十字」は赤が多いでしょうか。工事現場は緑が多いように思います。ネックレスなどのアクセサリーにも「十字架」のものがあります。これらの「十字」は「命を救う」とか「命を守る」というシンボルとして使われていると思います。

 そして、「十字架」と言えば教会、教会と言えば「十字架」というのが一般の人のイメージかもしれません。この教会にも十字架は、屋根の上にあり、そして、礼拝堂の正面にあり、あとどこにあるでしょうか?それでは、「十字架」はなぜ、「救い」や「安全」のシンボルになったのでしょうか?また、教会にはなぜ、「十字架」があるのでしょうか?

2.イエス様が十字架で死なれた理由(マタイの福音書 27章27~50節)

 これらの答えは『聖書』にあります。『聖書』は、おとぎ話やファンタジーでではなく、戒めや教訓だけが書かれている本でもありません。今から3500年ほど前から2000年ほど前にかけて、日本と同じアジアの、西の方の中近東で暮らした人々の現実の生活の中で書かれました。その歴史的な記述は作り話ではなく、その証拠に、背景となっている当時の社会の現実が正確に書かれています。たとえば、「総督の兵士たち」(27節)とは、当時のユダヤ地方を支配していたローマ帝国の総督、ピラトという人の兵士たちで、約2000年前のその場所に彼らは実在したのです。今日お聴きした『聖書』の箇所で最も多い単語はおそらく「イエス」という人の名前で、この方こそ、『聖書』の中心人物、実在した方です。

 イエスはなぜ「十字架」で死なれたのか?「十字架」とは裸同然で手足を釘で十字架に打ち付けそれを垂直に立て、人々の目にさらし何日もかけてジワジワと苦しめて死に至らせるローマ帝国の死刑の方法です。受刑者は時には発狂し、衰弱して息ができなくなり、窒息死すると言われます。あまりに残酷なので、十字架刑はローマの国籍をもつ人には適用されず、外国人にだけ行なわれました。見せしめの意味合いもあったのでしょう。イエスは何か重大な犯罪を行なったのか?総督ピラトは犯罪を認めず、釈放しようとしますが、人々はローマ帝国に対する反逆罪をでっち上げます。29節をお読みします。「ユダヤ人の王様、万歳」というからかいの言葉は、イエスはユダヤ人の王になろうとしてローマ皇帝に反逆したという意味で、37節の「罪状書き」も同じです。なぜ、反逆罪がでっち上げられたかと言えば、ユダヤ人の指導者たちの画策がありました。彼らにとっては、イエスの支持率がこれ以上高くなるのが脅威で、自分たちの立場を守るためにはイエスに消えてもらおうという身勝手な理屈がありました。そこで、「律法」というユダヤの法律に照らして「自分を神の子」とした冒とく罪を適用し(43節をお読みします)、死刑にしたかった(その場合は「石打ち」)のですが、当時のユダヤはローマ帝国の許可なしには死刑を執行できなかったので、ローマの総督を動かして「十字架」による死刑にしてもらったのでした。

 つまり、イエスは人々の身勝手な考えによって「十字架」で処刑されたことになります。本当は無罪なのに、「えん罪」だったことにもなります。しかし、人々の思いや行動の背後で進められていた神様の計画は、私たちすべての人の罪の身代わりにイエスが神に見捨てられ、重罪人として処刑されることだったのです。と言われても私たちの多くは「私は十字架で処刑されるほどの罪は犯していない」と思うかもしれません。しかし、どうでしょうか。『聖書』は、この世界と私たち人間を造られたのは神だと語ります。私たちを生かしておられる神を無視し、背いているとしたら、それは人間が作ったどんな法律を破るよりも重大な罪ではないでしょうか。46節を読みます。イエスのこの大声は、私たちが神様に見捨てられる代わりの叫びでした。イエスの十字架での苦しみが自分の代わりだったと知る時、神に対する自分の罪がいかに深く重大であるかが迫ってくるのではないでしょうか。

3.十字架は神様の愛と救いのしるし(マタイの福音書 27章51~54節)

 もし、「十字架」がイエスのむごたらしい処刑のシンボルというだけなら、それが医療や工事現場などで「救い」や「安全」のシンボルになることはなかったでしょう。ましてや、非人道的とも言えるような処刑方法が、首や胸に飾られるアクセサリーになることもなかったはずです。「十字架」は、なぜ、「救い」のしるしとなったのでしょうか?

 51~53節をお読みします。当時の礼拝の場所には、神と人とを隔てる大きな幕がありました。その幕の向こう側の神の領域には大祭司という特別な人が、自分たちの罪の身代わりにほふった牛ややぎの血を携えて年に一度だけ入ることができました。その隔ての幕が裂けたことは、イエス様が十字架で血を流し、死なれたことによって、一度で永遠の罪のゆるしと救いが成し遂げられ、神と私たち人間とを隔てる罪が除かれ、神との交流が回復されたことを意味します。この教会の正面の幕と十字架はそのことをイメージさせます。ヨハネ3章16節を読みましょう。「お与えになった」ということばには、イエス様が私たちのために十字架で死なれた事実も含まれています。つまり、「十字架」は、私たちを神がどれほど深く愛しておられるかを示すしるしでもあるのです。

Ⅲ.むすび

 最後に、十字架で死なれたイエスを見ていた当時の人々のことばを聴きましょう。54節をお読みします。この方は本当に「神の子」「救い主」と信じる人はすべての罪を赦され、神の子どもとされ、「永遠のいのち=地上でも天国でも神と共に生活できるいのち」を与えられます。このイエス様を、自分のための救い主と信じましょう。信じた人は神と共に生活できる幸せを実感し、十字架のイエス様を人々に証ししましょう。

(記:牧師 小暮智久)