2021年4月18日 礼拝説教「焼き魚とキリスト」
聖書: ルカの福音書 24章36~49節
Ⅰ.はじめに
今朝はパンでしたか?それともご飯でしたか?食べ物のことを話題にすると、話が急に身近になり、具体的になるように思います。たとえば、パンは食パンですか、それともぶどうパンか何かですかとか、ご飯のおともは何が好きですかなど、お互いの好みや食べ方の新しい発見もあるかもしれません。食事はだいたいの人は一日3食(私は高校の時は部活が終わって家に帰る前にパンかうどんを食べたので4食だったかも)、しかも食べることは毎日のことですし、何も食べない日というのはなく、だからこそ、献立を考えて、買い物をするのも大変と感じます。『聖書』の中に、食べ物というのは実にいろいろ出てきます。しかも、イエス様が食べる場面、弟子たちや人々と一緒に食べる場面も多くあります。それは、イエス様というお方が、私たちにとってごく身近なお方で、私たちと同じ日常生活を過ごされたということを示しているのではないでしょうか。先ほどお聴きした場面も、そのようなところです。弟子たちの気持ちやイエス様のことばを思い巡らしてみましょう。
Ⅱ.みことば
1.疑う弟子たちの中に(ルカの福音書 24章36~43節)
「これらのこと」(36節)とは何でしょうか?それは、イエス様が弟子の何人かに姿を現わしたことで、直前に書かれています。それを話していたのは、今で言えば日曜日のおそらく夜。なぜ話していたかと言えば、イエス様はおとといの金曜日に十字架に釘付けされて処刑され、確かに死なれたのに、その3日目にある人々がイエス様と会ったと言ったからです。今の私たちがその場にいたら「お化けか幽霊じゃないの?」と思うでしょうか。
弟子たちがその話をしていると何があったか?36節を読みましょう。話題の中心、イエス様自身が彼らの真ん中に立たれたのです。「平安があるように」は当時のあいさつですが、この時イエス様は彼らが一番必要としていた平安を与えてくださったのでしょう。弟子たちはどうしたか?彼らの恐れや幽霊だとの思いは(37節)、ごく自然ではないでしょうか。
その弟子たちにイエス様はどうされたか?38~39節を見ましょう。イエス様は、弟子たちが取り乱し疑っていることを否定せず、彼らの恐れや疑問に寄り添いました。その上で、よく見てさわってみなさいと、十字架の傷跡が残る手と足を見せられたのです(40節)。これは、自分で観察して実験して確かめるという科学の方法です。近代の科学は、ニュートンやガリレオなど『聖書』を信じ、イエス様を信じる人々から始まったと言われますが、イエス様は自分で見て確かめるようにと招かれたのです。それでもまだ不思議がる人々の姿は今の自分と重なるように思います。イエス様はどうしたか?41~43節を読みましょう。
『ステキな金縛り』という三谷幸喜さん監督の映画があります。その映画には戦国時代の落ち武者の幽霊が登場します。西田敏行さん演じるその幽霊がファミリーレストランで食べ物のにおいはわかるが食べられない場面があります。これは映画の話ですが、霊は物にさわれず、食べられないというのは納得できるように思います。イエス様が焼き魚を食べて、復活の身体を示されたのは興味深いのではないでしょうか。イエス様の復活の身体は、私たちが「使徒信条」で「からだのよみがえり、・・・を信ず」と告白する、イエス様を信じる者がイエス様の再臨の時に復活する新しい身体と同じ性質で、それは食べ物を食べ、味を楽しめる身体である一方で、戸が閉まっていても入れる身体のようです。様々な疑問が思い浮かぶなら、それをそのままイエス様にお祈りしてお尋ねすることができます。
2.聖書の約束の中で(ルカの福音書 24章44~49節)
弟子たちがおそらく夕食にと焼いた魚を食べられたイエス様は、あのエマオに行く二人に話したのと同じことをお話しになります。その中心は『聖書』に書かれている約束は、必ず成就し実現するということです。44節を読みましょう。「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」とは「旧約聖書」の全体を指します。『聖書』の前半部分の「旧約聖書」は紀元前のことを扱っており、イスラエル民族の歴史なども書かれており、分厚くてとっつきにくいかもしれませんが、その中心はキリスト(救い主)についての約束です。イエス様は、自分について旧約聖書に書いてあることはすべて成就し実現すると言われたのです。
さらにイエス様は弟子たちの心を開いて、「旧約聖書」を説き明かされました(45~47節)。これは、イエス様による「旧約聖書」の説教です。その内容としてまず、「旧約聖書には、キリスト(救い主)は苦しみを受け、3日目に死人の中からよみがえり、その名(キリスト)による罪の赦しをもたらす悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられると書かれている」と言われました。キリストが苦しみを受けることについてはイザヤ書53章など、復活については詩篇16:10などで約束されていたのです。先ほど讃美歌496番「うるわしの白百合」を共に歌いました。昨年のNHK連続テレビ小説「エール」の中で薬師丸ひろ子さんが歌って話題になったそうです。ドラマは「栄冠は君に輝く」などの作曲家・古関裕而(こせきゆうじ)さんがモデルでした。その奥さんのお母さんは聖公会(英国国教会)に属するクリスチャンで、その役が薬師丸ひろ子さんだったのです。ちなみに私たちのフリーメソジスト教会は、聖公会(英国国教会)の中で18世紀に始まったメソジストと呼ばれる改革運動がアメリカに広がり、アメリカで1860年に発足した教会で、聖公会とは関連があります。
そして、イエス様がすべての人のために十字架で死なれ、3日目に復活されたことにより、イエス様を救い主と信じる人は神様に対する背きの罪を赦され、神様の子どもとされるという知らせが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられることも「旧約聖書」で約束されていました。例えば、47節の脚注の②にあるイザヤ49:6もそうですし、イザヤ66:19などにも書かれています。イエス様の弟子たちは、『聖書』のこのような約束の中で、イエス様がキリスト(救い主)だと証言する証人となるのです(48節)。しかも、それは彼らの力によるのでなく、「父が約束されたもの」(49節)と言われた聖霊である神様が来られる時に着せられる力によるのであり、その時までエルサレムにとどまれと言われました(49節)。
今の私たちもまた、弟子たちと同じように『聖書』の約束の中で生かされています。それは束縛や強制ではなく、その約束に応答するか否かはひとりひとりの自由です。自由には責任も伴います。イエス様を救い主と信じる応答をした人は罪の赦しをいただき、神様の子ども、神様の家族、教会の一員とされた永遠の特権と相続財産という恵みを確約され、イエス様の証人とされる責任も与えられます。一方、イエス様を信じないという応答も自由ですが、神様の永遠の御怒りのもとに置かれる責任はその応答をした本人にあります。
Ⅲ.むすび
弟子の前で焼き魚を食べるという日常的なことで、ご自身の復活を示されたイエス様は、今も私たちの日常の中で『聖書』の約束は必ず実現することを指し示してくださいます。イエス様に心を開いて応答し、イエス様の証人として歩みましょう。
(記:牧師 小暮智久)