2021年4月11日 礼拝説教「心燃えて」

聖書: ルカの福音書 24章13~35節

Ⅰ.はじめに

 私たちは日常の生活で、どんな気持ちの時が多いでしょうか?新型コロナウイルスの感染状況を見聞きしていると、緊急事態宣言が出ている間は少し収まり、解除されるとまた拡大するという同じことを繰り返しているようにも思えます。そのような中、疲れを感じたり、出口が見えないいらだちを覚えたりするかもしれません。また、コロナ対策だけでなく、仕事のことや家族のこと、自分の体調や身近な人間関係の悩みなどでも、なかなか良い方へ解決せず、同じことを繰り返しているように思えることもあるかもしれません。そのような時、失望したり、あきらめたり、すべてを投げ出したくなったりするかもしれません。そのような日々の中で、私たちはどこに希望を見出したらよいのでしょうか。

Ⅱ.みことば

1.さえぎられていた目(ルカの福音書 24章13~24節)

 「ちょうどこの日」(13節)とは約2000年前の日曜日、イエス様が私たちのために十字架で死なれ3日目に復活された日曜日、今年で言えば先週のイースターの日です。イエス様の弟子の二人がエルサレムから11キロほど離れたエマオという村に向かって歩いていました。彼らが話し合っていた「これらの出来事すべて」(14節)とは何か?それは、イエス様が十字架で死なれてお墓に葬られたことや、3日目に女性の弟子たちがお墓に行くとイエス様のご遺体がなかったということなどでしょう。この二人に近づく人がいました。15節を読みましょう。それはイエス様でしたが、目がさえぎられていて、イエス様だとわからなかったのです(16節)。それは、目の問題というより、心に原因があったのではないでしょうか。まさか復活するとは全く期待しておらず、失望と悲しみでいっぱいになっていた心が、目をさえぎっていたのです。私たちにも、あきらめや失望で心がいっぱいで、目がさえぎられて、共におられるイエス様がわからないときがあるのではないでしょうか。

 そのようなとき、イエス様はどうされたか?共に歩き(15節)、「その話は何のことですか」(17節)と聞いてくださいました。見下すようなこと(18節)を言われても「どんなことですか」(19節)と聞き続けてくださいました。19~24節の弟子たちのことばを聴きましょう。イエス様は彼らの話を途中でさえぎりませんでした。彼らが言いたいこと、彼らの考えや気持ちを言わせてくださいました。今の私たちにとっては「お祈り」とはそのようなものと言えるでしょう。言いたいことや気持ちを神様に自由にお話ししてよいのです。

2.目が開かれて(ルカの福音書 24章25~35節)

 このあとこの見知らぬ旅人が二人にしたことは何でしょうか?25~27節を読みましょう。「モーセやすべての預言者たち」や「聖書全体」(27節)とは「旧約聖書」のことです。この人は、「旧約聖書」からキリスト(救い主)について、説き明かしてくださいました。これはまさに、イエス様による「旧約聖書」の説教と言えるでしょう。彼らはこのとき、イエス様とは気づかずに、イエス様の説教を、みことばの説き明かしを、直接聴いたのです。

 もう三人はエマオの村の近くに来ていましたが、この人はさらに先へ行きそうです(28節)。二人はどうしたか?29節を読みましょう。なぜ、一緒にお泊りくださいと引き止めたのでしょうか。それは夕方になったからでもありますが、もっと一緒にいたい、もっと聴きたいという渇きがあったからではないでしょうか。「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)とあるように、みことばをもっと聴きたいという渇き、これは大事です。

 当時の食卓でパンを裂くのは、家の主人だったそうです。しかし、この時はこの人がパンを裂き二人に渡しました(30節)。ということは、この人を主人の席にお迎えしたということになるでしょう。31節を読みましょう。なぜ、このとき、イエス様だとわかったのでしょうか?パンを裂かれたときにわかった(35節)とありますが、この二人は12弟子ではないようなので、最後の晩餐でイエス様がパンを裂く様子は見ていないと思われます。あるいはこの二人は、5つのパンと2匹の魚で男性だけで5000人の人々が満腹になったあの奇跡(9:16)のときにそこにいたのかもしれません。イエス様だとわかると、姿が見えなくなったのは不思議です。それは、イエス様が見える時だけでなく、見えない時でも、信じられるようになるためだったのではないでしょうか。彼らの目が開かれてイエス様だとわかったのはなぜか?32節を読みましょう。それは、イエス様が道々、聖書を説き明かしてくださり(脚注には「*直訳『開いてくださる』」)、自分たちの心が内で燃えたからです。イエス様がみことばを開いてくださると、心が燃えて、目が開かれ、イエス様が見えてくるのです。二人は食事もせずにすぐに立ち上がり、エルサレムに取って返します。そうせずにはおれなかったのでしょう。33~35節を読みましょう。心が燃えて目が開かれると、主にある仲間の交わりに加わり、教会の交わりに戻り、証しせずにはおれなくなるのです。

Ⅲ.むすび

 疲れたり、いらだちを感じたり、むなしさやあきらめを覚えるようなときも、復活されたイエス様は今週も私たちに歩調を合わせて共に歩いてくださいます。そして、私たちの思いや気持ちを聴いてくださったうえで、私たちの求めや渇きに応じて『聖書』のことばを開いて、説き明かしてくださいます。『聖書』のみことばにより、心燃えて、目を開かれ、パンを裂いてくださる聖餐の恵みに養われて、復活の主イエス様を見つめましょう。先行きの見えない時代にも、復活のイエス様こそが希望そのものです。

(記:牧師 小暮智久)