2021年2月14日 礼拝説教「生ける水に潤されると」

聖書: ヨハネの福音書 4章7~15節

Ⅰ.はじめに

 「あまり人と会いたくないなあ」と思うのは、どんなときでしょうか?人に受け入れられていないと思うときや、自分に自信がないときなどかもしれません。

 今日は、子どもと大人一緒の礼拝で、「教会学校」が取り上げている『聖書』のところを読んでいただきました。「教会学校」は緊急事態宣言のためお休みとなっていますが、そうでなければ今は「イエス様の歩み」というテーマです。イエス様がお生まれになって、成長され、大人になられてからどのように歩まれたか、が取り上げられています。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのが30歳の時、それから十字架で死なれ3日目に復活されるまでの約3年間、イエス様は弟子たちと一緒に旅をする生活でした。イエス様はこのとき、都エルサレムのあるユダヤ地方から、北に向かってガリラヤ地方へ旅をしていました。ユダヤ人はそのように旅をするとき、近道であっても間のサマリアは避けて通らないようにしていました。ユダヤ人は、サマリアの人々を下に見ていて、お互いにつき合いをしていなかったのです。しかし、このときイエス様はあえてサマリアの町を通られました。そこで何があったのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.お願いをするイエス様(ヨハネの福音書 4章7~15節)

 イエス様はサマリアの町の井戸のそばに座っておられました。旅で疲れていたからです。それは、ちょうどお昼ごろ、暑くて誰も井戸に水をくみに来ないような時でした。そこへ一人のサマリアの女の人が水をくみに来ました。「誰にも会いたくないなあ」と思って、この時間に井戸の所に来たのでしょう。イエス様はこの女の人に「わたしに水を飲ませてください」と言われました(7節)。ユダヤ人のイエス様が、サマリアの女の人にお願いをしたのです。これは当時としてはふつうないことで、この女の人にとっては驚きでした。9節を読みましょう。イエス様にとって、のどが渇いて、水を飲みたいからお願いしたという、ごく自然なことだったのでしょう。10節を読みましょう。「生ける水」と言われました。彼女は「生ける水」に関心をもって「どこから手に入れるの?あなたはこの井戸を掘った先祖のヤコブよりも偉いの?」と質問します(11~12節)。とっても興味深い会話ですね。

 イエス様はどう答えたでしょうか?13~14節を読みましょう。イエス様がくださる「生ける水」とは「決して渇かない」「その人のうちで泉となる」「永遠のいのちへの水」だと言われました。ふつうの水ではないですね。「永遠のいのち」と言われました。それは、身体がいつまでも生きる命ではなく、神様と自分とがつながったいのち、神様を礼拝し、神様と一緒に歩むことが喜びとなるいのちのことです。

 この女の人はどうしたでしょうか?15節を読みましょう。「その水を私に下さい」とイエス様にお願いしたのです。不思議ですね。最初はイエス様が「水をください」とお願いしたのに、ここでは女の人が「その水を私に下さい」とお願いしたのです。

2.自分を現わすイエス様(ヨハネの福音書 4章16~26節)

 このあと、イエス様は思いがけないことを言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」とこの女の人に言われたのです(16節)。彼女が「夫はいない」と答えると、イエス様はどう言われたでしょうか?17節後半~18節を読みましょう。イエス様は彼女の過去をすべて知っておられました。そして、今も心が満たされず、町の人とも顔を合わせたくなく、寂しい思いでいるのをイエス様はわかってくださっていたのです。

 自分のことを言わなくても知っているイエス様を、この女の人は預言者ではないかと思い、神様を礼拝する場所のことを話題にします(20節)。すると、イエス様はサマリアの人々が礼拝している山でも、エルサレムでもない所で、どこであっても神様を礼拝する時が来ると言われ、神様が求めておられる礼拝について次のように言われました。23~24節を読みましょう。彼女が出した礼拝という話題の中で、彼女が自ら「キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています」(25節)と言い、「キリスト」(救い主)ということばを口にしたのでした。すると、イエス様ははっきりと次のように言われたのでした。26節を読みましょう。これも興味深い会話です。彼女が関心をもっていることから話題が深まり、イエス様はご自分が「旧約聖書」で来ることが約束されていたキリスト(救い主)であることを明らかにされたのでした。

3.変えられた女の人(ヨハネの福音書 4章27~30節)

 そこへ弟子たちが戻って来て、イエス様が女の人と話しているのを見て驚きました(27節)。驚いたのは、弟子たちもユダヤ人でしたから、当時つき合いのなかったサマリアの女の人とユダヤ人のイエス様が話していたからでしょう。

 その女の人はどうしたか?28節を読みましょう。「水がめを置いたまま」というのが印象的です。人々と会いたくなかったはずのこの女の人が、それだけ急いで、しかも、そこへ戻って来るつもりで、町の人々のところへ言ったのです。どうしてでしょうか?29節を読みましょう。このとき、すでにこの女の人の中で、「生ける水」が泉のようにわきあがり始めていたからではないでしょうか。「泉」を見たことがありますか?私は静岡の柿田川と岡山の蒜山という所で「泉」を見ました。水があとからあとから湧いて来て、池があふれて、川になって流れ、その両脇には草木が育っていきます。この女の人も「永遠のいのちへの水」が泉のように湧き出て、人々に話さずにはいられなかったのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび   

 サマリアの女の人に話しかけられたイエス様は今週、私たちひとりひとりにも近づいて関わってくださいます。そして、私たちの方からイエス様に「生ける水」を求めるように、渇きを与えてくださいます。イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださり、葬られ、3日目に死から復活された救い主だと信じ、受け入れる人には「永遠のいのちへの水」をくださり、神様との永遠のつながり、神様と結ばれ心通わせ合う交わりという「永遠のいのち」が与えられます。この「永遠のいのち」は泉のようにわきあがり、あふれ、広がっていきます。サマリアの女の人がその町の人々に伝えずにはいられなかったように、イエス様は今週も、私たちを通して身近な人々に働きかけてくださいます。イエス様が自分を通して働こうとしておられることを、妨げてしまうことがないように、自分をイエス様にゆだねましょう。

(記:牧師 小暮智久)