2021年1月10日 礼拝説教「わたしの愛する子」
聖書: マタイの福音書 3章13~17節
Ⅰ.はじめに
新しい年になって10日、どのように過ごされたでしょうか?私は必ず毎日という訳ではありませんが、近くの公園でラジオ体操をひとりでして、それから30分ほど湯里の町を歩きます。先日公園で体操をしていましたらお母さんと2人のお子さんがたこあげを始めました。風がないので、子どもたちは公園の中をグルグル走ります。はしゃぎながら走っている間、たこはあがります。走るのに疲れるとたこは降りて来てしまう。たこをあげているのか、走っているのか、ちょっとわからない感じでしたが、楽しそうだなあとながめながら、子どものころのたこあげを思い出していました。風の強い日、たこは手もとを離れ、糸がスルスルと伸びていきました。たこはどんどん小さくなり、まるでいつまでもあがっているような感じでした。聖霊である神様の働きは、風にたとえられることがあります。がんばって走って自分の力で続けるような信仰の生活や教会生活ではなく、風に乗るように聖霊に運ばれる自由な、イエス様を信じる教会生活を送りたいと願います。
今日は「教会学校」の聖書箇所でクリスマスの場面の続きです。子どもの頃のイエス様と、イエス様が洗礼を受けた場面を見ます。今の私たちとどんな関係があるのでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.子どもの頃のイエス様(ルカの福音書 2章41~52節)
イエス様はベツレヘムでお生まれになったあと、どのようにお育ちになったのでしょうか?「ルカの福音書」の2章の終わりの部分が、イエス様の子ども時代について書かれている、ただ一つとも言える記録です。しかし、『聖書』に書かれていることは少ないですが、イエス様も私たちと同じように、赤ちゃんの時、保育園や幼稚園に行く頃、小学生の年代、思春期や中高生の年代、成人式や大学生の年代などを経験されたことは確かです。
ここに書かれているのはイエス様が12歳の時のこと。毎年3~4月に行われる過ぎ越しの祭りに都エルサレムへ両親と共に行かれました(41~42節)。当時は親戚や近所の人との団体旅行だったようです。祭りから帰る時、両親はイエス様も同じ団体の中にいると思い、1日歩いてしまいました(43節)。イエス様がいないと気づいたヨセフとマリアは「息子のイエスを見かけませんでしたか」と懸命に捜します。捜しながらとうとう都まで戻ってしまいます(45節)。イエス様はおられました。それはどこか?46~47節を見ましょう。それは「宮」、神様を礼拝する神殿です。イエス様は『聖書』を教える先生たちの真ん中で話を聞いたり質問したりしていたのでした。両親はどうしたか?48節を見ましょう。両親は驚き、母マリアは思わず叱ります。当然だと思います。それに対しイエス様はどう答えたか?49節は不思議なことばです。神様を「自分の父」と呼び、その「父の家」である神殿に自分がいるのは当然だと言うのです。私の娘が小さい頃迷子になり、懸命に捜したあとで出て来て、「どこに行ってたの?」と親が迷子であるかのように言ったことがありますが、それとは違うようです。イエス様は自分が神の御子だとわかっておられ、両親もそのことは頭ではわかっていたと思いますが、イエス様のこの時のことばはわかりませんでした(50節)。イエス様は親から理解されていないとも感じつつ成長されたのではないでしょうか。
また、父のヨセフはこのあと福音書にほとんど出てこないので、早くに召されたのではないかと言われます。つまり、イエス様は若い時に父を失い、母子家庭で育ち、4人の弟と妹たち(マタイ13:55,56)の面倒を見、「マリアの子」(マルコ6:3)と当時いやな思いをする呼ばれ方もしたようです。罪は犯しませんでしたが、私たちと同じような悩みや苦労を経験しつつ成長されたのでした。イエス様は私たちの悩みをわかってくださいます。
2.洗礼を受けられたイエス様(マタイの福音書 3章13~17節)
イエス様が人々の間で働きを始められたときは30歳でした(ルカ3:23)。その時イエス様は、ヨハネという人から洗礼を受けられます。このヨハネは、「バプテスマ(洗礼)のヨハネ」と呼ばれる人で、当時の人々に自分の罪を告白して悔い改める(行ないを変える)しるし、救い主を迎える準備をするしるしの洗礼をヨルダン川で授けていました。
このヨハネのもとにイエス様は来られました。洗礼を受けるためです(13節)。しかし、ヨハネは戸惑いました(14節)。自分こそイエス様から洗礼を受けるべきなのにと思ったからです。イエス様には罪がないのに、なぜ洗礼を受けるのでしょうか。15節を読みましょう。イエス様は、これは「正しいこと」だと言われました。罪のないイエス様は洗礼を受ける必要がありませんが、すべての点で私たちと同じ立場に立つために、これは正しいことだったのです。イエス様は、神様に背いた私たちと同じ立場にご自分を置き、私たちのお手本として洗礼を受けられたのでした。
イエス様が洗礼を受けたとき、何が起きたか?16~17節を読みましょう。「神の御霊」(16節)、聖霊である神様が、イエス様の上にくだって来られ、天から父なる神様が「これはわたしの愛する子」と声をかけ、神の御子であることを人々にはっきりとお示しになりました。ここに神様が、父、御子、御霊の三位一体のお方であることが示されています。
ヨハネが授けた洗礼は、罪を悔い改めるしるしの洗礼でした。今の私たちが受ける洗礼は、イエス様を救い主と信じたしるし、罪を赦されたしるし、神様の子どもとされたしるし、教会の一員とされたしるしです。洗礼を受けたあと、何か罪を犯しても、神様の子どもで教会の一員であることが取り消されることはありません。洗礼のあとに何か罪に気づいたら、神様に告白すれば赦されます。神様の子どもとして堂々と歩み続けられるのです。
なぜ、今の私たちは洗礼を受けるのでしょうか?それは、イエス様が弟子たちに、すべての人を弟子として洗礼を授けるように命じられたからです(マタイ28:19)。イエス様を信じた人は先に延ばさないで洗礼を受けるのが自然です。私は小学4年の3月にイエス様を信じました。信じたなら、それを人々にあらわす洗礼を受けるのが自然だと教えられ、準備クラスを受けて、翌年の4月、小学6年の時に洗礼を受けました。私がイエス様を信じたのは、死がこわく、天国に行きたかったからです。自分の罪のためにイエス様が十字架で死んでくださり、3日目に復活されたこと以外は、ほとんどわかっていませんでした。洗礼を受けるのが早すぎたかなと悩んだ時もありましたが、今はよかったと思っています。あの時受けなければ、中学の時には教会を離れていたかもしれないと思うからです。
Ⅲ.むすび
イエス様は、罪のほかは、私たちと全く同じようになってくださいました。ですから、私たちが学校や家や職場で苦しんだり、悩んだりするとき、イエス様はその悩み、苦しみをよくわかってくださいます。イエス様を信じている人は、洗礼を受けることを考え、祈りましょう。洗礼を受けた人は自分にも父なる神様から「わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と声がかけられているのを聞きつつ、今週も歩みましょう。
(記:牧師 小暮智久)