2020年12月24日 クリスマス・キャンドルサービス説教「神様の招き」
聖書: マタイの福音書 2章1~12節
Ⅰ.はじめに
今年はお互いにどんな1年だったでしょうか?新型コロナウイルスの感染についてのニュースを聞かない日はなく、マスクが手放せなくなり、私たちはこれまでにない経験をしてきたのではないでしょうか。そのようなこの1年の中で、神様というお方はどんなお方だったでしょうか?何が起きても起きなくても、いつでも変わらず、だれでもがご自分と出会えるようにと、ご自分のもとに招き続けておられる。それが、神様というお方です。その招きに、私たちは気がついているでしょうか?それは、どのような招きなのでしょうか?先ほど共にお聴きした『聖書』のクリスマスの場面から、私たちを神様のもとに招いている3つのものを心に留めましょう。
Ⅱ.みことば
1.自然によって(マタイの福音書 2章1~2節)
今週の月曜日から火曜日にかけて、夕方の南西の空で、木星と土星が大接近しました。400年ぶりとも800年ぶりとも言われる珍しい現象です。私は今月上旬ぐらいから夕方、この2つの星に注目していました。1週間ぶりぐらいに見ると、かなり近づいたなあとわかりました。1等星よりも明るい2つの星が一番近づいた時、目では2つの星だとわかりましたが、スマホで写真を撮るとほとんど1つの星に見えました。
このような明るい星を見て東の方から旅立った博士たちのことが、1世紀に書かれた文書、「マタイの福音書」の2章に書かれています。中東のユダヤから見て東の方とは、おそらく今のイラクあたりだろうと言われています。彼らは星を研究する学者であり、星占いをする人々だったかもしれません。彼らはある時、特別な星に気がつきます。その星をどう思ったか?2節を見ましょう。彼らは、ユダヤ人の王が生まれたことを意味する星だと考えたのです。この星はどんな星か?いくつかの説があります。その一つは、紀元前4~6年頃にバビロニアから見て今年と同じように南西に見える木星と土星の大接近があり、そこにさらに明るい金星が加わり、非常に目立ったのではないかという説です。彼らは、いつもと違う自然現象を不思議に思い、ユダヤ人の王に関心をもち、「礼拝」という神様に対する態度を意味することばを使ったのでした。この星には「動いて導く」という超自然的な面(9節)もありましたが、星という自然のものによって神様は彼らを招いたのでした。
今の私たちも、星だけでなく、山や海の美しさ、季節の移り変わりの不思議、動物たちや自分の身体や心の動きを含め、生きているということの神秘など、身の回りの自然のものによって、これらをデザインし、造られたお方がいるのではないかと思ったことはないでしょうか。それは、自然によって、つまりご自分の作品によって私たちの思いをご自分へと向け、私たちをご自分のもとへと導く神様の招きなのです。
2.『聖書』によって(マタイの福音書 2章3~8節)
東から博士たちが来て言ったことは、ユダヤのヘロデ王を動揺させました(3節)。なぜか?ユダヤの王は自分であって、自分のほかに王が生まれたとなると、自分の立場が危ないと思ったからです。ヘロデは、ユダヤに「キリスト」(救い主という意味)と呼ばれる王が生まれるという預言を知っていたようです。自分の地位を守るために、ユダヤの指導者たちを集め、「キリストはどこで生まれるのか」と問いただします(4節)。彼らは「ユダヤのベツレヘムです」と答えます(5節)。答えは『聖書』に、「旧約聖書」のミカ書5:2にありました(6節)。ヘロデは、『聖書』によってキリストが生まれるのはベツレヘムという町だと知り、博士たちに伝え、送り出したのでした。博士たちを旅立たせたのは自然界の星、王が生まれるとしたら首都のエルサレムだろうと考えたのは彼らの常識的な判断、しかし、キリストが生まれる場所という神様のご計画については『聖書』によって知ったのでした。
今の私たちも、自然によって、木や花の美しさ、生き物のいのちの不思議などによって、これらを造ったお方がいるのではないかと予想はできても、そのお方がどんなお方で、私たちのことをどう思っているのかまではわかりません。それを私たちに示すのが『聖書』、神様のことばです。神様のご性質、お考え、私たちへの思いなどは『聖書』に書かれており、『聖書』によって神様は私たちをご自分のもとへ招いておられるのです。
3.イエス様によって(マタイの福音書 2章9~12節)
不思議な星によって西へと旅立ち、『聖書』によってベツレヘムと導かれた博士たちは、ついに幼子のいる所の上にとどまった星を見て、この上もなく喜びます(9~10節)。そして、家に入って、とうとう念願の幼子に会い、「ひれ伏して礼拝した」(11節)のでした。彼らが宝の箱をあけてささげた黄金、乳香、没薬はかなり高価なものであったと言われます。そして、黄金は王に、乳香は神様に、あるいは神様に香をささげる祭司に、没薬は死者の葬りに用いられるものと言われてきました。博士たちがどんな意味を込めたのかはわかりませんが、この幼子イエス様こそ、王であり、神であり、神と私たちとをつなぐ完全な祭司であり、私たちの罪を背負って十字架で死ぬためにこの世に来てくださったことをほのめかしているようにも思えます。幼子イエス様と会い、イエス様を礼拝した博士たちは、その後どうしたか?12節を見ましょう。彼らは「別の道から」帰って行きます。ヘロデ王のことば(8節)よりも、夢での警告を優先するようになったのでした。これは、思う以上に大きな変化ではないでしょうか。夢での警告は、当時の彼らには神様の導きを意味したのでしょう。つまり、神様の御子イエス様と出会うことによって、彼らは地上の王ヘロデよりも神様に信頼して従う生き方へと変えられたのでした。
今の私たちも、自然によって、『聖書』によって、そして、イエス様によって、神様を知るように招かれ、神様のもとへ招かれています。特に、イエス様によって私たちは、神様がどんなお方かを見ているのです。イエス様は「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言われました。イエス様は、神様に背いた私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださり、3日目に復活されました。イエス様を救い主として信じ受け入れる時、私たちのすべての罪は赦され、神様の子どもとされ、神様の子どもたちの集まり、すなわち教会の一員とされ、神様を知ろうとするだけでなく、信頼して従うように変えられ、教会の仲間とのつながりによって育まれていきます。イエス様を信じると、神様の家族としてつながり、神様に従う人に変えられる。イエス様を信じた人々が経験していくことです。
Ⅲ.むすび
今も、自然によって、『聖書』によって、イエス様によって、神様がご自分のもとにすべての人を招いておられるのは、私たちひとりひとりを愛し、私たちとの関係を回復したいと切に願っているからです。神様の招きに応じようではありませんか。
(記:牧師 小暮智久)