2020年9月6日 礼拝説教「新しいことは何のため?」
聖書: イザヤ書 43章19~21節
Ⅰ.はじめに
9月に入り、最初の主の日を迎えました。暑さとコロナウイルスだけでも大変ですが、台風の接近も気にかかります。どのような日々をお過ごしでしょうか?
私たちの教会に与えられている今年度のテーマのみことばはこれです。「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」(イザヤ43:19)。毎月、第1の「主の日」には、このみことばを共にお聴きしてきました。主は同じみことばの異なった面に光を当てて語ってくださり、お聴きしたことを、みなさんと分かち合わせていただきました。今日も主がご自身のいのちのことばからお語りくださることをともにお聴きいたしましょう。
Ⅱ.みことば
1.新しいこととは?(イザヤ書 43章19節)
「わたしは新しいことを行う」(19節)ということばは、イザヤという預言者に神様から預けられ、今も私たちに語られている神様のことばです。預言者とは神様のことばを預かり人々に伝える人です。イザヤは約2700年前、西アジアのユダという国で活動しました。
「わたしは新しいことを行う」と神様は言われます。「わたしは・・・行う」と言われるとおり、神様はこの現実の世界において生きて働かれ、何事かを行なわれるお方です。
では、神様ご自身が「行う」と言われる「新しいこと」とは、何でしょうか?
それは、神様が以前に行なわれたこと(16~17節)とは全く異なる「新しいこと」です。神様は以前、「海の中に道を」(16節)とあるように「出エジプト」と呼ばれる出来事で、奇跡によって「救い」を行なわれました。それを「心に留めるな。昔のことに目を留めるな」(18節)と言われるほどの「新しいこと」とは何でしょうか?
この「新しいこと」にはいくつかのことが重なって含まれていると思われます。
このイザヤの時代から近いこととしては、ユダという国の民が捕囚として連れて行かれるバビロニア帝国から解放されて故郷に帰ることができるという「救い」の出来事です。
このイザヤの時代から遠い将来の「新しいこと」としては、救い主であるイエス様がこの世界に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれ、3日目に復活され、この方を救い主と信じる人を罪と滅びから解放するという「救い」の出来事です。この「救い」は必ず私たちの「生き方」を変えます。神様を大切にし、礼拝する「生き方」に変えるのです。また、この「新しいこと」には、聖書の約束通りにイエス様がもう一度この世界に来られ、今の天と地が過ぎ去り、新しい天と地がもたらされることも含まれると言えるでしょう。
しかも、神様が行なわれる「新しいこと」という「救い」は、私たちにそれぞれ個人的に行なわれるだけでなく、イエス様を信じる人がみな「わたしの民」(20節)と言われる「神の民」に加えられ、「神の民」が回復されていくことでもあるのです
2.それは何のため?(イザヤ書 43章20~21節)
主なる神様が「新しいこと」を行われるのは、何のためでしょうか?20節を見ましょう。
それは第1に、荒野にある神様の民が潤されるためです。神様が「新しいこと」として「荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませる」(20節)とあるとおり、水のない荒れ地を通って故郷に帰っていく人々のために、神様は川を流れさせ、水を飲ませてくださいます。19節には「荒野に道を」とあります。誰も通れないような荒れた場所に、神様は道を設け、神様の民が迷わず歩めるようにしてくださいます。
神様が「新しいこと」を行われるのはこのように、まず、神様の民である私たちのためです。今の世界も荒野のようではないでしょうか。その中で歩む方向を見失わず、疲れ果て渇き切って倒れてしまわないように、神様はご自分の民のために、道を備え、川を設け、その水を飲ませてくださるために、この「新しいこと」を行われるのです。それは、今の私たちにとって、具体的にはどんなことか?それは、神様が行なうと約束されて、今から約2000年前に実際に行なってくださったイエス様の十字架と復活の出来事によって、イエス様を信じる私たちに備えられた「恵みの手段」と呼ばれる、神様の恵みを受ける手段がそうではないでしょうか。例えば、それは「聖餐」です。「聖餐」を受けることで私たちは十字架のイエス様を仰ぎ、その恵みを身をもって味わい養われ、渇きを潤されます。例えば、それは「みことば」です。『聖書』を読むことで私たちは養われ、歩むべき道を示されます。例えば、それは「お祈り」です。お祈りは神様との会話です。お祈りで私たちは今の気持ちや思い、迷いや疑い、悩みや問題を神様にお話しし、神様に答えや導きを求めることができます。「聖餐を受けること」「聖書を読むこと」「お祈りすること」は、私たちをご自分の子ども、ご自分の家族、ご自分の民として愛をもってお導きくださる神様と親しくされ、神様との信頼関係を深められ、私たちが潤され養われるための大切な方法です。
主なる神様が「新しいこと」を行われることの目的の第2は、神様の栄誉が宣べ伝えられるためということです。21節を読みましょう。この「栄誉」ということばは今回調べてわかったのですが、「讃美」「ほめたたえる歌」という意味で、「詩篇」ということばや「ハレルヤ」(「主をほめたたえよ」という意味)ということばとも関連があります。主が「新しいこと」を行われるのは、神様の民が、神様の栄誉を人々に宣べ伝えるため、あるいは、主が「新しいこと」を行われた結果、神様の民が、神様をほめたたえ、神様がいかにすばらしいかを宣べ伝えるようになると言えるでしょう。「わたしのためにわたしが形造ったこの民」とは誰のことでしょうか?Iペテロ2:9~10を読みましょう。これはペテロがイエス様を信じた人々に宛てて書いた手紙のことばで、特にこのイザヤ書43:21が意識されており、そのことばの実現を語っています。イエス様を信じた人が「神の民」とされたのは、自分たちを闇から光の中に召してくださった神様の栄誉を告げ知らせるためなのです。具体的にはどういうことか?Ⅰコリント10:31を読みましょう。「食べるにも飲むにも」とあるように、食べること、飲むことが、神様の栄光につながるかを考えて行なうことです。また、「何をするにも」とあるように、日常の行動が神の栄光を現せるよう祈りましょう。神様が「新しいこと」を行われるのは、神様のすばらしさが現され、宣べ伝えられていく生活を私たちが続けられるためであり、そうできるように神様は今も働いてくださいます。
Ⅲ.むすび
聖餐のあと讃美歌502を歌います。「いともかしこし」とは「とても畏れ多い」という意味でしょう。イエス様は私たちすべての者のために十字架で苦しみ、死んでくださいました。このイエス様を信じた私たちは神の栄誉を宣べ伝える神の民とされています。神様が約束された「新しいこと」は今も実現し続けています。今週、何をするにも神様の栄光が現れるにはどうしたらよいか吟味して歩ませていただきましょう。
(記:牧師 小暮智久)