2020年8月30日 礼拝説教「神の摂理(せつり)と私たち」
聖書: 創世記 45章16~28節
Ⅰ.はじめに
「摂理」ということばはふだんの生活であまり聞かないかもしれません。手元の辞書には「キリスト教で、神の意志(の中にある計画)。これによって万物がそれぞれの目標に導かれるとする」とありました。2番目の意味として「自然界を支配している法則」と書かれていました(『学研 現代新国語辞典』)。「自然の摂理」という言い方は一般的でしょう。「摂理」と関わりがあるのが「運命」ということばです。恋愛で「運命の人」と言えばロマンティックな感じがします。辞書では「人間の身の上を支配し、人の意志で変えることも予測することもできない神秘的な力」とあります。「運命」は英語ではデスティニー、自分の自由な意志で変えられない定めを意味しますが、「摂理」は英語ではプロヴィデンス、神様の意志と自分の自由な意志が組み合わされて行なわれる神様のご計画を意味するようです。その違いは私たち人間の側に自由があるかどうかだと言えるでしょうか。
私たちの教会は2004年から「創世記」を礼拝で少しずつお聴きしてきました。この「創世記」は、世界と人間の創造から始まり、罪の始まり、ノアの箱舟などの出来事を語り、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフというイスラエルの民の先祖の人生を詳しく記しています。今日は、前回7月26日にお聴きしたところの続きから、特に私たちと周囲の人々の自由な意志や行動が、神様の自由な意志とどう組み合わされて、神様のご計画が進められていくか、神様の「摂理」というものの不思議をともに思いめぐらしたいと思います。
Ⅱ.みことば
1.エジプトの招きと歓迎(創世記 45章16~20節)
「ヨセフの兄弟たち」(16節) とあります。ヨセフは紀元前1914年頃、西アジアに生まれた実在の人です。父はヤコブ、ヨセフには10人の兄と一人の弟がいました。ヨセフは17歳の時「家族が自分にひれ伏す夢を見た」と言い、兄たちに憎まれエジプトへ行く商人に売られます(37章)。彼はエジプトで奴隷となり、その主人の妻に無実の罪を着せられ、監獄に入れられます(39章)。そこで、ある事がきっかけで王が見た夢を解き明かし、囚人から総理大臣に抜擢されます。その夢の通りに7年間は大豊作、次の7年間は飢饉となり、彼は豊作の時に食糧を蓄えさせます(40~41章)。父ヤコブがいる所でも食糧がなくなり、10人の兄たちは食糧を買いにエジプトへ行きます。総理大臣のヨセフには兄たちがわかりましたが、兄たちにはヨセフだとわかりません。ヨセフは兄たちをわざとスパイだと疑い、一人を人質とし末の弟を連れて来いと試し(42章)、末の弟ベニヤミンに盗みの罪のぬれぎぬを着せて奴隷となるよう迫りますが、兄のユダは自分が身代わりになると申し出ます(43~44章)。兄たちの真実な態度を見たヨセフはついに自分がヨセフだと明かし、「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです」(45:8)と言うのです。
ヨセフは一族のエジプト移住を考えます(45:9~11)。エジプトの王室はどうか?16節を読みましょう。まず、ヨセフの兄弟たちが来たことを、エジプトの王も家臣たちも喜びました。それだけヨセフは、エジプトで愛され、重んじられていたということでしょう。17節以降には、エジプトの王様自身の考えが述べられています。17~20節を見ましょう。それは、さきほどのヨセフの考えと一致して、ヤコブ一族をエジプトに招くというもので、さらにそれに加えて「エジプトの地の最良のもの」(18節)とか「エジプトの地から車を持って行き、・・・父を乗せて来なさい」(19節)など、喜んで招く心が具体的にあらわれたものでした。ヨセフを通して、エジプトの王ファラオがイスラエル一族の移住を喜んで歓迎することへと働きかけられた神様の摂理は、実に不思議ではないでしょうか。
2.招きを保証するもの(創世記 45章21~24節)
「イスラエル」(21節)とはヤコブの別名で、ヤコブの息子たちはファラオのことばに基づき、故郷カナンの地に行く準備をします。ヨセフがファラオの命令により彼らに与えた「車」(21節)は、父を乗せて来るためのもので、牛が引く一般的な2輪車ではなく、馬が引く特別な4輪車だろうと言われます。今で言えば、高級外車ベンツでしょうか。これは、ファラオがヨセフの父ヤコブを本気で招く保証ではないでしょうか。さらに、道中のための食糧(21節)、兄弟たちへの晴れ着や末の弟への銀と晴れ着(22節)、父への贈り物と父がエジプトへ来る道中の食糧(23節)が兄弟たちに与えられました。これらはすべて、エジプトの王が、ヨセフの功績のゆえに、いかに父ヤコブとその一族がエジプトへ来ることを喜んで歓迎しているかを保証しているのではないでしょうか。
3.応答を可能にしたもの(創世記 45章25~28節)
ヨセフの兄弟たちはエジプトから故郷カナンの地に戻ります(25節)。直線距離は330km。当時の旅は徒歩です。何日かかったでしょうか。父ヤコブに兄弟たちは報告します。26節前半を見ましょう。ヤコブはどうしたか?茫然としました。当然でしょう。22年前、ヨセフの兄たちに血の付いたヨセフの服を見せられて以来、ヨセフは死んだと思ってきたヤコブには、彼が生きていることも、エジプトを支配していることも、信じられませんでした。
そんな父ヤコブにエジプトに移住する気を起こさせたものは何でしょうか?27節を読みましょう。それはまず、兄弟たちが伝えたヨセフのことばであり、「自分を乗せるために送ってくれた車」(27節)もまたそうでしょう。しかし、何よりもヤコブの心を動かしたものは何か?28節を読みましょう。それは息子ヨセフの生存情報です。この時、ヤコブは130歳(47:9)。自ら進んで外国に行くのがとても困難と思われる高齢のヤコブにエジプトに行こうと思わせたのは、死ぬ前にヨセフに会いたいという気持ちです。ヨセフがエジプトに売られなければ、しかも首相になっていなければ、こういうかたちでの高齢のヤコブとその一族、つまりイスラエル民族の先祖たちのエジプト移住はなかったことでしょう。
Ⅲ.むすび
イスラエルのエジプト移住が約400年後のモーセによる出エジプト、約束の地カナンへの旅につながり、やがてイスラエルは王国となり、ダビデ王の子孫としてキリストであるイエス様がお生まれになります。これらは、人々の自由意志や行動と神様の意志とが組み合わされてなされ、まさに神様の摂理によるものでした。イエス様が当時の指導者たちの反感によって十字架につけられたことも、私たちすべての人の罪のために死なれるという神様の救いの計画の実現であり、これも神様の摂理によったのです。このイエス様を信じるか信じないかは私たちの自由に任されており、信じた人は全き聖化を含め神の国の完成に向けて進められる神様の摂理のみわざに参加させていただけます。週報の一番下に記されている私たちフリーメソジスト教会の使命も、すべての人を「罪の赦し」と「きよめ」へと召し招いておられる神様の摂理の中で進められていくのです。
(記:牧師 小暮智久)