2021年12月26日 礼拝説教「和解をもたらす神様」
聖書: 創世記 50章15~26節 (「創世記」連続講解説教 最終回)
Ⅰ.はじめに
今日は今年最後の主日礼拝式です。礼拝とは何でしょうか?礼拝は、単に『聖書』のお話を聞き、学ぶ時ではありません。また、礼拝は、単に心に安らぎや恵みを受ける時でもありません。では、礼拝とは何か?「礼」と「拝」の文字があるように、神様に「礼」を尽くし、神様を「拝む」時です。礼拝は、単に私たちが何かを受ける時ではなく、私たちが神様というお方に「ささげる」時です。例えば、「奏楽」を献げ、「讃美」を献げ、「祈り」を献げ、「感謝」を献げ、「奉献」においては自分の大切なお金を献げることによって「私たち自身」を献げるのが「礼拝」です。礼拝の中心は「説教」ではありません。礼拝の中心は「神様ご自身」であり、神様の「ご存在」であり、神様の「おことば」です。私たちは、神様の「おことば」である『聖書』の語りかけに耳を傾けることで、神様の「ご存在」を重んじ、礼拝するのです。その意味では、「礼拝の中心は聖書朗読である」とも言えるでしょう。ですから、「聖書朗読」は「ゆっくり、はっきり、正確に」が大切です。「説教」は、朗読された『聖書』を神様のみことばとして取り次ぎ、伝えるもので、礼拝出席者と共に神様が語ることに耳を傾けることで神様を重んじ、神様にお仕えする奉仕の一つです。
私たちの教会は礼拝で「創世記」を2004年6月から少しずつ共にお聴きし、今日はついに最終回です。「創世記」は、時間的・空間的に壮大な広がりをもち、私たち人間の人生や家族、文化や社会、民族や国家などとの関わりで非常に深い意味をもつ書物ではないでしょうか。「創世記」は、天地万物、全宇宙の創造、人の創造から始まり、罪の始まり、ノアの箱舟、バベルの塔の出来事などを記します。そのあと、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという4世代の家族に注目させます。その終わりは何を語るのでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.兄弟たちの和解(創世記 50章15~21節)
アブラハムの孫にあたるヤコブという人は、飢饉に見舞われた時、息子ヨセフが総理大臣となっていたエジプトに身を寄せ、そこで天寿を全うしました。父ヤコブの死は、共にエジプトに移住していたヨセフの兄弟たちに何をもたらしたのでしょうか?15節を読みましょう。それは、恐れです。「われわれが彼に犯したすべての悪」(15節)とは、父ヤコブにえこひいきされていたヨセフを兄たちが憎んで、彼が17歳の時に旅の途中の外国人にヨセフを売ったことです。父にはヨセフは獣に食い殺されたと偽ったのでした。兄弟たちは、今や家長である父ヤコブがいなくなったこともあって、エジプトで権力者となっていたヨセフの仕返しを恐れたのです。ヨセフに赦されたという実感がなかったようです。
恐れた兄弟たちはどうしたでしょうか?16~17節を読みましょう。彼らはヨセフに、父の遺言を伝言として言い送ります。この父のことばは、兄弟たちの作り話ではないかと説明する注解書もあります。私もそう考えていました。しかし、今回、いくつかの注解書を読み、「創世記」のこれまでの文脈を改めて考えてみました。父ヤコブが家族や親族の問題で苦しんできたことがこの書には書かれています。兄にうらまれ、伯父にだまされたこともあります。そんな父は、ヨセフの仕返しを恐れる兄弟たちの様子に気づき、兄弟たちとヨセフの和解を願い、実際にこう語った可能性は高いと思われます。また、もし、17節の父のことばが作り話だとすると、兄弟たちの謝罪やヨセフの涙も不自然な感じがします。兄弟たちは心からおわびし、ヨセフは心から泣いたのです。それだけではありません。兄弟たちはヨセフのもとに来て、ひれ伏して「私たちはあなたの奴隷です」(18節)とまでへりくだった態度を示したのでした。年末にあたり、私たちは誰かの怒りやうらみを買っていることがないか、あやまる必要はないか、神様に探っていただいてはどうでしょうか。
兄弟たちの謝罪を受け、ヨセフはどうしたでしょうか。19~21節を読みましょう。「恐れることはありません」と2回繰り返されていて、強調されています。なぜ、恐れる必要がないかと言えば、「私が神の代わりになることができるでしょうか」と言った通り、仕返しや復讐は神様がされること(ローマ12:19~21)であって、人間には許されていないとヨセフは自覚していたからです。ヨセフは兄弟たちを赦します。20節を読みましょう。ヨセフが彼らを赦す根拠は、彼自身の寛容さではなく、すべてを益にするためにお導きになる神様の摂理にありました。兄弟たちはヨセフに悪を謀りました。しかし、「神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」(20節)。「神は」とある通り、主語は神です。神様がすべてを最善に導き、ヨセフと兄弟たちを和解させてくださったのです。
2.ヨセフの信仰と死(創世記 50章22~26節)
ヨセフの晩年の姿がここに記されています。彼は110歳まで生き、孫やひ孫まで見ることができるなど、祝福された老年時代を過ごします(22~23節)。
ヨセフの最後のことば、遺言は何だったでしょうか?24~26節を読みましょう。ここでも、主語は神です。「神は必ずあなたがたを顧みて」という表現が24節と25節で繰り返され、強調されています。これは、ヨセフの、神様に対する信仰です。しかも、それは、約束された神様というお方に対する信仰です。ヨセフが神様をいかに信頼していたかを表わしています。今の私たちに対しては、「必ず約束を守り実現される神様は信頼に足るお方ですよ」というヨセフの証し、証言でもあります。神様の約束とは何か?ヨセフと兄弟たちにとっては、ここエジプトから、アブラハム、イサク、ヤコブに神様が与えると誓われたカナンという土地へ導き入れてくださるという約束です。
ヨセフはその時が必ず実現するというしるしとして、「そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください」(25節)と、兄弟やその子、孫たちに誓わせたのでした。この遺言は実際にはどうなったのでしょうか?「新改訳2017」の翻訳の『聖書』には脚注があり、とても便利です。25節の脚注①に、出エジプト13:19、ヨシュア24:32、へブル11:22とありますので開いて読んでみましょう。神様は約束をその通り実現し、ヨセフの遺言はことば通り実行されたのでした。
Ⅲ.むすび
「創世記」の最後が、兄弟たちの和解の場面と、将来を待ち望む遺言であることは意味深いのではないでしょうか。神様は約束を必ず実現されます。救い主を送るとの約束はクリスマスに実現し、御子イエス様は十字架で死なれることによって、神様に対する私たちの背きが赦されるという和解を、すべての人に備えてくださいました。イエス様を救い主として迎え入れる人は誰でも、神様と和解され、神様の子ども、神様の国の民とされます。神様と和解された人は誰でも、身近な人とも和解するように変えられていきます。神様との和解を感謝し、人と和解する人は、「わたしはすぐに来る」と言われるイエス様が再び来られる日を待ち望むのです。ヨハネ黙示録22:20~21を読みましょう。
(記:牧師 小暮智久)