2026年3月15日 礼拝説教 「どう祈るか」

聖書: ルカの福音書 11章1~13節

Ⅰ.はじめに

 私はできるだけ毎日歩こうと心がけており、町内をよくさんぽします。さんぽのコースはいつもだいたい決まっていて、その途中で湯里住吉神社と覚林寺の間の道を通ります。時々、神社で拝んでいる人の姿を見ます。何を祈っているのか、わかりませんけれども、人間を超える何かの存在に祈る姿は尊いなあと思います。だれもが、何かに祈ったことがあるのではないでしょうか。人が何かに向かって祈る。それは、だれでも心の中に、自分を超える大きな存在への思いがあるからではないでしょうか。

 この教会の礼拝では2017年5月より「ルカの福音書」から少しずつ続けてお聴きしており、今日は先週の続きの箇所です。今日のテーマは「お祈り」です。神様のことばである『聖書』は「お祈り」についてどう語っているのでしょうか。「お祈り」の相手である「神様」というお方は、『聖書』によればどんなお方なのでしょうか。

Ⅱ.みことば

1.お祈りとは(ルカの福音書 11章1~4節)

 「さて、イエスはある場所で祈っておられた」(1節)。ここには、お祈りするイエス様の姿があります。イエス様はよくお祈りされました。いつもそばにいた弟子たちは、その姿を見ていたことでしょう。このときは、イエス様のお祈りが終わると、弟子のひとりが「私たちにも祈りを教えてください」(1節)と言いました。私たちもこの朝、イエス様からお祈りを教えていただきましょう。イエス様は喜んで教えてくださいます。

 イエス様は弟子たちに、どう言われたでしょうか?2~4節をお読みします。これは、先ほど祈った「主の祈り」と言われるお祈りです。毎週の礼拝で祈る「主の祈り」は、マタイの福音書6章がもとになっていますが、ルカの福音書では少し短くなっています。イエス様は弟子たちに、何度かお祈りを教えられたのでしょう。

 イエス様は「祈るときには、こう言いなさい」(2節)と言われ、まず「父よ」と呼びかけなさいと言われました。『聖書』は、「神様はおられる」と言っています。神は存在するのです。その「神様」はどんなお方かと言えば「父よ」「お父さん」と呼びかけることができる親しいお方なのです。イエス様をキリスト(救い主)と信じた人は、この「神様」の子どもとされています。ですから、実感を込めて、心を込めて「父よ」と呼びかけることができるのです。私たちも「父よ」と祈りましょう。

 呼びかけたあとは、何を祈るのでしょうか?まず「御名が聖なるものとされますように」(2節)です。御名とは、神様のお名前で、神様の存在そのものという意味です。わかりやすく言えば、神様ご自身があがめられますように、というお祈りです。私たちが祈るとき、何を祈っても、その結びには「神様の御名があがめられますように」と祈りましょう。

 次に「御国が来ますように」(2節)。御国とは、神様の国。神様が愛と恵みをもって包んでくださる領域のことです。神様は強制的に包もうとはされません。自由な意志で神様の愛と恵みを受け入れようとする人を包んでくださいます。この「御国」が来ますように。

 そして、私たちの必要を祈ります。「日ごとの糧」「罪のゆるし」「試みからの守り」。心にトゲのように刺さっている罪の呵責はないでしょうか。祈りましょう。

2.祈りは答えられる(ルカの福音書 11章5~13節)

 イエス様は、お祈りについて教えるために、ひとつのたとえ話をされました。真夜中に「パンを貸してくれないか」と頼みに来た友だちのたとえ話です。5~6節をお読みします。なぜ、真夜中にパンを借りに来たかと言えば、友人が旅の途中、自分の所に来たが出してやるものがないからだというのです。『聖書』が書かれた西アジアでは当時、日中の暑さを避けて時間が遅くなっても旅を続けたのだそうです。頼まれた友だちは、家族と一緒にもう寝床に入ってしまっていると言って一度は断ります。しかし、友だちがしつこく頼むので必要なものをあげるでしょう、というたとえ話です。

 このたとえ話は、神様にしつこく求めよということを教えているのではありません。人がしつこく求められれば願いを聞いてくれるとするならば、ましてや慈愛に満ちた神様がそれ以上のことをしてくださらないことがあろうか、ということを教えているのです。

 神様は私たちが何を必要としているかを誰よりも知っておられます。では、なぜ、お祈りして、求める必要があるのでしょうか。それは、父親が子どもから話しかけられ、「こうしてほしい」と自分から直接求めてくるのがうれしいのと同じように、神様は私たちが自分から直接、自分のことばで求めるのがうれしく、それを待っておられるからです。9~10節をお読みします。求めるなら、神様は与えてくださる。神様はおられるだけでなく、生きておられる。神は存在するだけでなく、生きておられるお方です。私は小学生の時にイエス様を信じて、洗礼を受け、高校生の時にhi-b.a.という団体のキャンプでイエス様を信じて与えられたものがどんなにすばらしいか実感しました。大学生の時にイエス様を人々に伝える働き人になるように神様の呼びかけを聞き、神学校(牧師などになる準備をする学校)へ行きました。神学生だった時、土曜日には毎週、公園で紙芝居をし、集まった子どもたちにイエス様を伝えていました。ある土曜日は朝から雨でした。私は神様に雨がやむように祈りました。すると、ちょうど紙芝居をしている時間だけは雨がやみ、子どもたちにイエス様を伝えることができたのです。天気についての祈りは、人それぞれに都合が違いますから祈り方が単純ではないでしょうが、私にとってこの経験は、神様は生きておられて、私の祈り求めに答えてくださるお方だと実感する出来事だったのです。

 11~13節をお読みします。ここは、読めばそのままよくわかるのではないでしょうか。神様は私たちの祈りに答えてくださる。私たちにとって良いものを与えてくださいます。祈りは必ず答えられます。神様のお答えは、私たちが求めたとおりの場合もあれば、そうでない場合もあります。待つようにという答えもあれば、それ以外の答えもあるでしょう。いずれにしても、神様は「良いもの」を与えてくださいます。

 最も良いものとは「聖霊」です。聖霊である神様は、私たちにイエス様がどんなお方かよくわかるように示し、その時その時必要な『聖書』のことばを思い起こさせてくださいます。イエス様がこのお話をされた時点では、聖霊である神様はまだ地上に来られていませんでした。今は、聖霊は地上に来られており、イエス様を信じた人すべてに与えられています(Iコリント3:16、ローマ8:9)。聖霊は今も働いておられます。 

Ⅲ.むすび

 神様はおられます。神様は生きておられます。神様は生きておられ、私たちのお祈りに答えてくださいます。神様は、私たちが自分から進んでお祈りするのを待っていてくださいます。具体的に何を祈るにせよ、そのあとに「どうか、このことによって、神様の御名があがめられますように」と祈りましょう。

(記:牧師 小暮智久)