2026年1月25日 礼拝説教 「イエス様の洗礼」
聖書: マタイの福音書 3章13~17節
Ⅰ.はじめに
ある日、私が散歩中に会った知り合いの人に、「教会に行けるのは洗礼を受けている人だけなの?」と聞かれたことがあります。「そうじゃないよ。だれでも行っていいんだよ」と答えました。そんな話をしながら私は、教会のことをそんなふうに思っている人は多いのだなあと感じていました。「では、洗礼を受けるのはどんな人だと思う?」と聞いたら、どんな答えが返ってくるのでしょうか。たぶん、「清くなった人」とか「親がクリスチャンの人」とか「よほどの罪を犯した人」とか、特別な人だけという答えが多いでしょうか。ほんとうは、自分の罪を正直に認めてイエス様を信じて過ごしていきたいと願うなら、だれでも洗礼を受けられるのですが、まじめな人ほど自分は洗礼を受けるにはふさわしくないと思ってしまうのかもしれません。イエス様という方は、なぜ洗礼を受けたのでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.洗礼とは?(マタイの福音書 3章13~15節)
今も川や海で洗礼式を行なう教会があります。この教会にも以前、大和川で洗礼を受けた人がおられました。「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた」(13節前半)。約2000年前、ヨハネという人がヨルダン川で人々に「バプテスマ」を授けていました。「バプテスマ」とは「洗う」とか「浸す」という意味で日本語に訳すと「洗礼」です。ヨハネがこの時、ユダヤ人に授けていた「洗礼」とは何か?それは、「自分はユダヤ人に生まれて神様の民だけど、自分の罪を言い表わし、これからは神様の民にふさわしい生活をしていきます」という新しいスタートのしるしでした(マタイ3:6~8)。そのようにして、キリスト(救い主)を迎える準備を、ヨハネは人々にさせたのでした(3:9~12)。
そのヨルダン川のヨハネのもとに、イエス様が「彼からバプテスマを受けるため」(13節後半)に来られたのですから、ヨハネは驚きました。14節にあるヨハネの疑問と驚きは、私たちも同じではないでしょうか。「イエス様、あなたには罪はないのに、なぜ洗礼を受けるのですか」と私たちも聞いてみます。するとイエス様は「このようにすることが、わたしたちにはふさわしい」とお答えになりました(15節)。イエス様は神のひとり子で罪はありませんが、私たちの罪を背負って十字架で死なれるために、私たちと同じ人となられ、神の御子だからという特別扱いを受けずに、私たちの手本として、私たちと同じように洗礼を受けたのです。
2.イエス様の洗礼式と私たち(マタイの福音書 3章16~17節)
イエス様の洗礼式はどのようなもので、何が起きたのでしょうか。16節を見ましょう。「すぐに水から上がられ」(16節)とあるので、水の中に入られたのは確かです。「洗礼」は、イエス様が私たちのために十字架で死なれ、3日目の日曜日に復活され、そのあと50日目の日曜日に聖霊が来られて教会がスタートした時から、水を頭に3回つける「滴礼」と、水の中に全身を浸す「浸礼」で行なわれ、そのどちらも正式なやり方です。大切なのは、洗礼が「父、子、聖霊」という三位一体の神様の名によって授けられること、洗礼のあとにイエス様の場合に何が起きたかということです。「神の御霊が・・・ご自分の上に降って来られ」(16節)とある通り、聖霊である神様がイエス様の上にとどまられたのでした。
私たちもイエス様を救い主を信じる時、聖霊である神様がうちに住んでくださいます。洗礼式においては、そのことが人々にもわかるように公表されるのだ、と表現できます。そして、天からの声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(17節)。天からの声とは、父である神様の声です。イエス様は、父なる神様にとって「わたしの愛する子」であり、「わたしはあなたを喜ぶ」と言われる大切な存在なのです。そして、イエス様を信じる私たちにも、天からの声が今日、イエス様を通して、私たちひとりひとりに響いてきます。私たちひとりひとりは、父なる神様にとって「わたしの愛する子」であり、「わたしはこれを喜ぶ」と言っていただける、神様に喜ばれている存在なのです。
Ⅲ.むすび
あなたの洗礼式はいつごろ、どのようなものだったでしょうか。まだ、洗礼を受けていないとすれば、自分が洗礼を受けるのはどのような時だと思いますか。私が洗礼を受けたのは小学6年生になった4月、11歳になって2ヶ月後でした。今思えば、何もわかっていませんでした。自分に罪があることを認め、イエス様が十字架で死なれたのは私のためだと信じた以外は、どれほどわかっていたか、わかりません。イエス様を信じて歩んでいこうという思いはありましたが、そのあとの私の信仰を育んだのは、母教会の方々とのつながりとお祈り、そして「これはわたしの愛する子」と呼びかけてくださる父なる神様であることは確かです。イエス様はだれでも、そのままで自分のもとに来るように招いています。すべての人を洗礼に、神様の子どもとして安らぎと張り合いをもって生活するように、と招いています。
(記:牧師 小暮智久)

