2025年11月16日 礼拝説教 「イエス様に従う」

聖書: ルカの福音書 9章 51~62節

Ⅰ.はじめに

 この教会の礼拝では2017年5月から『聖書』の「ルカの福音書」から少しずつ、神様の語りかけをともにお聴きしています。前回は9章50節まででしたので、今日は、先々週の続きの箇所から、神様の語りかけをともにお聴きしましょう。

Ⅱ.みことば

1.エルサレムに向かうイエス様(ルカの福音書 9章51~56節)

 51節に「天に上げられる日が近づいて来たころ」とあります。これは、イエス様が私たちのために十字架で死なれ、3日目に復活され、その後弟子たちとともに過ごされ、天に昇られる、その日が近づいて来たころという意味です。51節をお読みします。イエス様がその御顔をエルサレムに向けたのはなぜか?それは、イエス様が都エルサレムで十字架につけられるからです。その道中、サマリア人の村を通られました。サマリア人とは、もともとはイエス様や弟子たちと同じユダヤ人でしたが、歴史の経緯の中でユダヤ人と移民との間に生まれた人々です。サマリア人は礼拝の場所は、ユダヤ人が考えるようにエルサレムの神殿ではなく、サマリアだと主張していたことなどもあり、ユダヤ人とサマリア人とは互いに対立していました。イエス様はそのサマリア人にも語りかけようとその準備のために使いを送り出されました。サマリア人はイエス様に対してどうしたか?53節をお読みします。「イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので」とは、イエス様がサマリア人を無視されたということではなく、サマリア人にとっては敵対視するエルサレムを大切にしているように見えたので、「サマリア人はイエスを受け入れなかった」(53節)のでしょう。弟子はどう反応したか?54節をお読みします。非常に短絡的です。イエス様は彼らを叱り、サマリア人をも大切にしておられることを示されたのでした。

2.イエス様に従うとは(ルカの福音書 9章57~62節)

(1)兵士のように(ルカの福音書 9章 57~58節)

 イエス様が、エルサレムに向かう途中、ある人が「あなたに従います」と言います。この人にイエス様はどう言われたか?「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(9:58)。この人の志願を断ったのでも、やる気をそいだのでもないでしょう。これは戦場に行く兵士と同じ覚悟の要求と言われます。キリストに従うことは、私たちの安全や安心や安定を保証しません。情熱や理想や善意だけでは続かない、兵士のような覚悟があるか、とキリストは問われるのです(Ⅱテモテ2:3-4)。

(2)祭司のように(ルカの福音書 9章 59~60節)

 旅の途中、イエス様は別の人を「わたしに従って来なさい」と招きました(9:59)。先ほどの人は自ら志願、今度はイエス様から声をかけたのです。今度の人はどうしたでしょうか?「まず行って、父を葬ることをお許しください」(9:59)と答えたのです。断ったわけではありません。「これが終わったら従いますから」と少し待ってほしいと頼んだのです。しかも、父親の葬儀という正当な理由です。とても常識的で家族を大切にする人です。

 イエス様はどう言われたでしょうか?「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(9:60)。耳を疑うような、イエス様らしくない冷たい言葉なあと感じます。「父親の葬儀はどうでもいいんですか」と反論したくもなります。しかし、当時の葬儀の事情を調べると、とても興味深く、イエス様が一番言いたかったことが見えてきます。当時のユダヤの葬儀は1年半~2年かかるのが普通だったそうです。人が亡くなるとすぐに葬式をして横穴の墓に納め、1週間から1ヶ月は喪に服し、それで葬儀の全部が終わりではありません。1年か1年半くらいすると、横穴の墓の石のふたをずらし、家族が入り、腐乱した遺体を洗い、骨を集め、墓地に納骨して、ようやく葬儀の全部が終わるのだそうです。埋葬の数年後に骨を洗って納骨する習慣はかつて沖縄にもあったそうですが、ユダヤでは納骨まで長くかかったのです。イエス様は、2年もかかる父親の葬儀の大切さをご存知でしたが、祭司が自分の身内の葬儀よりも神に仕えることを優先するよう命じられた(レビ記21:11)ように、従うとは、何かが終わってからではなく、今なのだと言われたのです。その意味では、あなたにしかできないことを今、優先せよという祭司と同じ覚悟の要求です。

(3)農夫のように(ルカの福音書 9章 61~62節)

 3人目の人は、どんな人でしょうか?「主よ、あなたに従います。ただ、」と、この「ただ、」のあとの条件をつけた志願者です。「まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください」(9:61)と言ったこの人は、優しくて、人情の厚い、やはり家族を大切にする人ではないでしょうか。イエス様を信じ、イエス様に従う人は、人を大切にし、家族を大切にするのが当然ではないでしょうか。家族に別れも言わない冷たい人、家族を見捨てるような人は、イエス様に従う人としてふさわしいでしょうか。

 この人にイエス様はどう言われたか?「鋤(すき)に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(9:62)。何と冷たい、そして、厳しいなあと思いませんか。家の人に別れを言うぐらい正当な条件だとも私は言いたい。しかし、よく読むととても興味深いものが見えてきます。「すき」とは、農業の道具。つまり、ここは、農夫のイメージで、イエス様に従うことと、神の国の国民のあり方を描いている。農夫が手ですきを握り、畑を耕そうとして、うしろを振り向いたらどうなるか、ということです。

 イエス様について行く。それは二股では無理なのです。二兎を追う者は一兎も得ず。イエス様か、家の人か、どちらかの選択を迫られた場合、どちらを人生の主として従うかが問われています。耕すならば、うしろを振り向かずに、ひとすじに耕すという農夫と同じ覚悟が求められています(ヤコブ5:7-8)。イエス様に従うとは、イエス様への忠誠です。

Ⅲ.むすび

 のちほど讃美歌365番で「わが主イエスよ、愛の御手に、身もたまをもゆだねまつり」と共に歌います。「ゆだねる」とは成り行き任せではなく、イエス様に、そのみこころに無条件で今、従うことです。それは、イエス様の助けなしにはできないことです。今日従えるよう主の助けを求めましょう。

(記:牧師 小暮智久)