2025年3月2日 礼拝説教 「神の子どものきよさ」
聖書: ヨハネの手紙 第1 3章1~3節
Ⅰ.はじめに
「自己紹介」をするとき、何を、どのように、話すでしょうか?まず、自分の名前、生まれた場所や育ったところ、両親や兄弟とか家族のこと、そして、仕事や趣味のことなどを話すかもしれませんね。私の場合、名前は「小暮」。「小さく暮らす」と書いて「こぐれ」と読みます、と紹介することもあります。生まれたのは1963年、東京都の小岩という所。兄弟は弟がひとりいます。大学生までのほとんどは埼玉県の所沢で過ごしました。1988年、25歳から大阪で暮らしていますから、人生の中で大阪が一番長くなりました。1989年に結婚、3人の子ども(女、女、男)が与えられ、今はみな独立し、夫婦ふたりの生活です、というようなことを話すでしょうか。しかし、これでほんとうに「自分」を紹介したことになるのでしょうか。「自分」とは何か?ことばで「自分」をあらわすのは、なかなかむずかしいと思います。特に「神様との関係」において「自分」とは何でしょうか?
2024年度の最後の1か月に入りました。今年度の教会の主題は「私たちは神の愛する子ども」。この朝は、どのようにして「神の子ども」とされたか(過去)、やがてどうなるのか(将来)、では今をどう生きるのか(現在)を、先ほど読まれた神様のことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.神の子どもの原点(ヨハネの手紙 第1 3章1節)
私たちはどのようにして「神の子ども」とされたのか?みことばは「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」(1節)と言っています。ですから、よく考えましょう。私たちは「神の子ども」とされる以前、神様に無関心で、神様に背いており、神様の怒りを受けるべき人でした(エペソ2:1~3)。そのような私たちに、神様がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを考えなさい、と言われているのです。それは、ご自分のひとり子をくださるほどの愛、神様の御子キリストが、私たちひとりひとりの身代わりとなって十字架で死なれたことによって明らかにされた愛です(ヨハネ3:16,ローマ5:8)。神様のすばらしい愛がまず先に与えられて、私たちがイエス様を救い主と信じた時に、「神の子ども」とされたのです(ヨハネ1:12)。
私たちはそれぞれ、どのようにしてイエス様を信じ、「神の子ども」とされたでしょうか?その原点をふり返り、感謝しましょう。同じ教団の町田福音キリスト教会から「伝道部ニューズレター」をいただき、その中に「受洗までの導き」という文章がありました。この人は大学時代に『聖書』と出会いますが、当時は「宗教は想像の産物だ」と考えており、信仰には至らず、就職してからのある時、『聖書』を読んでいて自分がイエス様の復活を信じられないトマスの姿に重なるという経験をしたのだそうです。「見ないで信じる人たちは幸い」(ヨハネ20:29)という場面を通してイエス様を信じる信仰が与えられたと証しし、その後、友との絆の回復や家族を再びつないでくださったことなど、神様のみわざを証ししています。お読みください(1階掲示板)。イエス様の十字架と復活。ここに神の愛があります!
2.神の子どもの将来(ヨハネの手紙 第1 3章2節)
みことばは「愛する者たち」(2節)と私たちに親しく呼びかけています。「私たちは今すでに神の子どもです」(2節)。イエス様を信じたけど「自分」は何も変わってないなあと失望する時もあるかもしれません。こんな「自分」が「神の子ども」なのかなあと半信半疑になることもあるかもしれません。しかし、みことばは繰り返して強調しています。1節では「事実、私たちは神の子どもです」、2節では「私たちは今すでに神の子どもです」と。イエス様を救い主と信じているなら、たとえ実感がなくても,あなたは確かに「神の子ども」なのです。自分ではそう思えなくても、神様はイエス様を通して「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)と、あなたに言ってくださっているのです!
では、「神の子ども」とされた私たちは、将来どうなるのでしょうか?「やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません」(2節)。具体的なことは明らかではありません。「しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています」(2節)。「キリストが現れたとき」とは、イエス様が再び来られる時のこと、再臨の日のことです。その日、私たちは「キリストに似た者になる」とみことばは告げています。驚くべきことです!顔かたちがみな同じになるわけではないでしょう。私たちそれぞれの個性はそれぞれのままで、皆が、その内面が、その生活が、キリストに似た者になるというのです。信じますか?新しい天と新しい地となり、顔と顔とを合わせてイエス様とお会いし、私たちはイエス様に似た者に変えられるのです。そのときを楽しみに待ちましょう!
3.神の子どもの現在(ヨハネの手紙 第1 3章3節)
では、「神の子ども」とされた私たちは、今、この世を、どのように生きるのでしょうか?3節をお読みします。「キリストにこの望みを置いている者はみな」、キリストが再臨され、キリストのありのままを見て、キリストに似た者になるという望みを持っている人はみな、「キリストが清い方であるように、自分を清くします」、キリストがきよいお方であるように、今、この世においても、少しでもキリストに似た者になるように、自分をきよくするのだ、と言われています。「自分をきよくする」という表現に違和感を覚える人もいるかもしれません。きよくしてくださるのは神様であって、自分で自分をきよくできないのではないか、と。しかし、そうでしょうか?確かに、きよくしてくださるのは神様ですが、自分は何もできない、何もしなくてよい、自分の好き勝手にしていてよいのでしょうか。
神様は、Ⅰペテロ1:15で「あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい」と命じておられます。神様がきよくしてくださるという面と、自分をきよくし、聖なる者となるという面と、その両面があるのです。
「神の子ども」とされてからも、私たちは失敗し、罪を犯してしまうことがあります。そんな時にどうしたらよいか?「神の子ども」であることが取り消されてしまうのではありません。「神の子ども」として、罪を言い表わし、ゆるしていただき(Iヨハネ1:9)、悔い改めて罪から離れ、そのようにして「自分をきよくする」のです。毎月の聖餐礼拝でささげる「さんげの祈り」は、「自分をきよくする」ための機会と言えるでしょう。具体的には「肉のわざ」(ガラテヤ5:19~21)を避け、「御霊の実」(ガラテヤ5:22~23)を結ぶのです。
Ⅲ.むすび
「キリストのきよさ」の中心は、神様への愛と人への愛ではないでしょうか。「神の子どものきよさ」の中心もまた、神様と人とに対する愛です。きよさとは、関心をもって関わっていくこと、神様にも人にも、話しかけ、話を聞くこと、きよさとは交わりをもつことではないでしょうか。神様の愛にこたえて、愛を求めましょう!
(記:牧師 小暮智久)