2025年1月26日 礼拝説教 「老いの悲しみと神」
聖書: サムエル記 第1 8章1~22節
Ⅰ.はじめに
先週、ドナルド・トランプ氏がアメリカ合衆国の大統領に就任しました。78歳です。日本で言えば後期高齢者の年齢です。この年齢で2度目の大統領となる人生を、どう思われますか?私は若い時代、20代前半の時に『老いの意味』(ポール・トゥルニエ著)を読みました。そこには、人生には2つの大きな転機があると書かれていました。一つは子どもから大人へ(中高生時代でしょうか)という転機、もう一つは老年へ(何歳ぐらいを指すのでしょうか)という転機です。年をとること、それは誰にとっても他人事ではありません。若い時と比べて、からだや心が変わってくる。あちこちが痛くなったり、しびれたり、動かせなくなったりする。自由に外出しにくくなり、孤独を感じるようになる。自分にとって、年をとることにはどんな意味があるのでしょうか?教会の図書貸出コーナーには関連図書として『闇への道 光への道 年齢(とし)をかさねること』や『老いは恵み』という本がありますので、どうぞお読みください。世代を越えて、大切なテーマではないでしょうか。
この教会の礼拝では、『旧約聖書』の「サムエル記」を2022年1月から少しずつお聴きしていて、今日は久しぶりに昨年の7月28日の続きの所です。時は紀元前1050年ごろ、所は西アジアのイスラエルです。神様はここから何を語っておられるのでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.年老いたサムエルと人々の要求(サムエル記 第1 8章1~9節)
「サムエルは、年老いたとき」(1節)とあります。サムエルと言えば少年の時に名前を呼ばれたという場面(3章)を思い出すからか、若いイメージがあるのは私だけでしょうか。しかし、ここでは年を重ねて高齢になり、自らは第一線を引いたのでしょうか、「息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した」(1節)のでした。どんな息子たちだったか?3節をお読みします。これはサムエルにとって心の痛みだったでしょう。エリは自分の先生、その息子たちもよこしまな者たちでした。それを見ていたサムエルは自分の息子たちはそうならないように気をつけたはずですが、自分が願ったようには育たなかったのです。
さて、イスラエルの長老たちはみな集まり、サムエルのところにやって来て言います。4~5節をお読みします。これは年老いたサムエルにとっては非常に厳しくきついことばだったのではないでしょうか。というのは、①「まことに言いにくいのですが、あなたはもうお年です」。年をとっても自分は若いと思っている人にとってはきついことばです。②「あなたのご子息たちは主の道を歩まないばかりか、人の道からはずれたことをしています」。神を信じ、神に仕えるご家庭で、いったいどんな教育をなさって来られたのでしょうか。③もうあなたの一族のご指導やご支配を受けたくありません。あなたに代わる支配者として「私たちをさばく王を立ててください」ということばだったからです。
このようなきついことばを受けて、彼はショックを受け、悲しかったのではないでしょうか。そしてどうしたか?6節をお読みします。子どもが自分の願うようにはならなかった老いの悲しみの中で、サムエルは主に祈ったのです。私たちにも「こんなはずではなかった」という現実があるかもしれない。その時に、私たちも主に祈ることができます。主は答えられます。7~9節をお読みします。「彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしを拒んだのだ」。主の心は痛み、悲しんだに違いない。しかも、主の心に反すると思われるのに王を立てよ、と主は言われる。これはサムエルには意外だったでしょう。この主の複雑な思い、主の悲しみ、主の苦悩。サムエルはこの苦悩に与(あずか)る者とされるのです。
2.王の権利(サムエル記 第1 8章10~18節)
これまでイスラエルの王は神様でした。人々はそれを拒んで人間の王を立ててほしいと要求します。神様は「自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ」(9節)と言われ、サムエルは「主のすべてのことば」(10節)を伝えます。それが11~18節です。王は、人々の息子たちに対しては徴兵を行ない、王の畑のために働かせ、軍事産業に従事させます(11~12節)。王は、娘たちを取り料理などをする者とします(13節)。また、王は、畑を没収し、穀物などの10分の1を徴収し、家来たちに与えます(14~15節)。王は、人々の家の大切な労働力である奴隷たちや家畜を取り、働かせ、羊の群れの10分の1も没収し、民はみな王の奴隷となるのです(16~17節)。さらに、これらの苦役や重い税のゆえに泣き叫んでも、神様は答えないと言われたのでした(18節)。
主が言われた王の権利はなんと絶大で、王を立てる代わりに人々が失うものはなんと大きいことでしょうか。あなただったら、それでも王を求めるでしょうか?主は、これだけ厳しい条件をつければ民が考えを変えるかもしれない、と思われたのかもしれません。
3.それでも王を求める民(サムエル記 第1 8章19~22節)
19節をお読みします。民がそれほどに王を求めたのは、なぜだったのか?20節をお読みします。「ほかのすべての国民のように」という表現は5節でも使われていました。イスラエルを取り囲む、ほかのすべての国々には王がいた。それと同じように王がほしい。ほかのすべての国々、それは偶像を拝む人々の国です。偶像とは結局、人間の欲望の表われです。偶像を拝むとは、自分の欲を神とすることと言えるでしょう。イスラエルに王がこれまで立てられていなかったのは、神様が王だったからです。その神様を捨てて、人間の王を立てる。それは、偶像を拝む国々と同じようになることを意味していました。イスラエルの民は神様に選ばれた人々だったはずなのに、神様が「エジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった」(8節)と言われたとおり、まさに彼らは神様を捨てることを選んだのでした。
これを聞いて神様はどんな気持ちだったか?21~22節をお読みします。民は神様を退け、人間の王を立てる。歴史的な転換の時です。これは、たまたまの、なりゆき上のことだったのか。そうではない。数百年前に、主によって予告されていました。申命記17:14~16をお読みします。主は知っておられた。神様が退けられ王が立てられることは、神様のおこころに反することだが、そうなることを神様は知っておられた。サムエルはどんな気持ちだったか?民の喜びを共に喜べず、主のことばに従って、あえて苦悩を背負います。それは、神様の複雑な思い、神様の悲しみを共に担う苦悩だったのではないでしょうか。
Ⅲ.むすび
老いの悲しみを主は知っておられる。私たちが痛む時、主もまた痛む。神の御子キリストは私たちのために十字架で痛みを負われた。私たちもまた、主の悲しみ、主の苦しみを共に担うのです。「キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たして」(コロサイ1:24)いくのです。
(記:牧師 小暮智久)