2025年1月12日 礼拝説教 「礼拝する信仰」

聖書: ルカの福音書 17章11~19節

Ⅰ.はじめに

 「ある人を知っている」というとき、その知り方にもいろいろあります。たとえば、会ったことはないが名前だけ知っているとか、何度も会っていて親しい、などです。何かを信じるという「信仰」、神様と自分のつながり方にも、人それぞれでいろいろなつながり方や「信仰」の個性というものがあると思うのです。たとえば、神様はいると思うけど、どんなお方かよくわからないという「信仰」や、神様を信じたばかりで遠慮や疑問があるという「信仰」や、神様には何でも言える親しい関係だという「信仰」などです。
 今日は、子どもと大人の合同礼拝です。合同礼拝では、教会学校の『聖書』の箇所から神様のことばをお聴きしています。教会学校はいま、「神の子イエス」という単元で、目標は「主イエスの働きを知り、救い主と信じて従う」です。さきほど読まれた『聖書』のみことばから、イエス様と自分との関係を「信仰」というキーワードで考えてみましょう。

Ⅱ.みことば

1.願う信仰(ルカの福音書 17章11~13節)

 私たちが信じる前からイエス様はおられ、私たちに近づいて来られます。このときもそうでした。11節をお読みします。「ガリラヤとサマリアの境」(11節)。当時、ユダヤやガリラヤの人々とサマリア人とは仲が悪く、互いに接したり話したりしませんでした。ですからそこはガリラヤ人もサマリア人もあまり近づかない所です。イエス様はそんな所も通ってくださるのです。12節をお読みします。「ある村に入ると」(12節)。それはどんな村でしょうか?重い皮膚病、人にうつると思われていた病気、ツァラアトという病気の人が、ほかの人々から離されて住んでいた村です。そこにもイエス様は来てくださったのです。

 10人の病人は自分たちの願いを訴えます。13節をお読みします。イエス様のうわさを聞き、このお方なら自分たちを治してくれるかもしれないと考えていたのかもしれません。初めて会う彼らは願います。「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」(13節)。

 「願う信仰」という神様とのつながり方があります。教会の前で十字架の塔を拝む人の姿を毎日見かけます。話したことはないので、どんな思いで拝んでいるのかわかりません。でも、何かを願っているのでしょう。私もイエス様を信じる前、まだ神様がよくわからなかったときにお祈りしたことがありました。教会へ行くようになった小学3年生のころ、食事の前にはお祈りするようにと教えられて、家でお祈りしたのでした。何をどう祈ったか覚えていませんが、たぶん「神様、このごはんをありがとう」と祈ったのでしょう。その姿を見て母は教会に関心をもち、教会に行くようになったのでした。

2.従う信仰(ルカの福音書 17章14節)

 イエス様は彼らを無視されませんでした。彼らを見て、彼らの病気がなおる方法を示されたのです。14節abをお読みします。それは、からだを祭司に見せに行くということでした。当時、この病気は、祭司という人たちがそのからだを見て「治った」と言わなければ、自分の家族のもとに帰って、ふつうの生活をすることができなかったのです。

 10人は選ぶことができました。イエス様のことばに従うか、従わないか、彼らの自由でした。10人はどうしたか?14節cをお読みします。彼らは祭司のところへ行った、つまり、イエス様に従ったのです。このとき、イエス様に対する信頼がなければ、彼らは行かなかったでしょう。10人には10人とも、イエス様に「従う信仰」がありました。そして、彼らはなんと、行く途中で病気が治ったのでした!

 私たちに「従う信仰」はあるでしょうか?私の場合、小学4年生の時、子どもたちのための特別な集会に行き、そこで「イエス様を信じれば天国へ行けますと『聖書』は言っています」というお話を聞きました。そのとき私は、そのみことばに従い、イエス様を信じ、「信じたら洗礼を受けるのですよ」とのちに言われ、それにも従って、小学6年生のときに洗礼を受けたのでした。私たちにも「従う信仰」があるのではないでしょうか。

3.感謝する信仰(ルカの福音書 17章15~19節)

 さて、『聖書』のみことばは、ここで「めでだし、めでたし」と終わってはいません。このあとが大事なのです。10人とも病気が治りました。その中のひとりだけ、その後の行動が違ったのです。15~16節をお読みします。彼は「大声で神をほめたたえながら(讃美) 引き返して来て(悔い改め)、イエスの足もとにひれ伏して(礼拝) 感謝した(感謝)」(15~16節)のでした。それはサマリア人、ユダヤ人とは付き合わない人です。なぜ、彼だけが感謝と礼拝をささげるためにイエス様のもとに帰って来たのでしょうか?ここには書かれてないのでわかりません。思うに、ユダヤ人のイエス様がサマリア人の自分をも治してくださったということがよほどうれしかったからかもしれません。

 イエス様はどう言われたか?17,18節をお読みします。このときのイエス様の気持ちを想像してみましょう。おそらく悲しく、残念だったのではないでしょうか。

 そして、この人に対してイエス様は何を言われたか?19節をお読みします。「あなたの信仰があなたを救った」(19節)。どういう意味でしょうか?「あなたのその『感謝する信仰』が、『礼拝する信仰』が、あなたのからだだけでなく、たましいをも救った」という意味ではないかと思います。「あなたは、わたしと、しっかりとつながったのだね」とイエス様はこの人に、「救いの確信」を与えてくださったとも言えるかもしれません。

 私の場合、小学6年生で洗礼を受けましたが、イエス様を信じるとはどういうことか、信じて何がどう変わったのか、わかりませんでした。高校生のとき、hi-b.a.という団体のバイブルキャンプに行って同じ年代のクリスチャンたちと出会い、『聖書』のメッセージを聞いて、イエス様を信じて自分に何が与えられたか、これからどのように過ごしたらよいかがわかり、みことばの約束によって「救いの確信」を与えられたのでした。

 私はこの教会に任命され遣わされてから、61人の人に洗礼を授けました。さまざまなケースがあり、いろいろな事情の人々がおられます。なかには「イエス様を信じれば天国に行けます」という『聖書』のことばに「従う信仰」をもって洗礼を受け、礼拝に出られる状況であるのに、「感謝する信仰」「礼拝する信仰」にまで進んでいない方もおられます。それぞれに事情があり、信仰にも個性がありますが、「礼拝する信仰」に進めますように。

Ⅲ.むすび

 私たちそれぞれの信仰は今、どのような状態でしょうか?「願う信仰」か「従う信仰」か「感謝し礼拝する信仰」でしょうか。そのときによっても違うかもしれませんし、混ざっているときもあるかもしれません。願い、従うだけでなく、感謝し礼拝する信仰を神様からいただきましょう。それは、神様としっかりとつながる恵みです。

(記:牧師 小暮智久)