2025年1月1日 元旦礼拝説教 「休息と活力の源」
聖書: マタイの福音書 11章28~30節
Ⅰ.はじめに
もうずいぶん前ですが、松任谷由美さんと帝劇のジョイントの劇が上演されました。題は「あなたがいたから私がいた」。脚本は松任谷正隆さんで、劇の最初と最後は教会の場面、劇の中で『聖書』を読む場面を設けたいと思ったそうです。「その『聖書』の箇所とコメントを考えてもらえませんか」という依頼を受けたのが、私が神学校で一緒だった友人の波多 康牧師でした。彼はゴスペルクワイヤや音楽関係の方と幅広く関わっているので、そのつながりでの依頼だったようです。松任谷正隆さんから依頼された主旨は「どんな姿になっても神様はあなたを必ず見つけてくださるといった内容のものがいいのですが、そんな『聖書』の1節なんてあるんでしょうか?」というものでした。その劇には松任谷夫妻のほかに石黒 賢さんや比嘉愛未(ひが まなみ)さんらが出演、女優の比嘉愛未さんが読むことになった『聖書』の言葉のひとつが、今朝私たちもお聴きしたマタイ11:28だったのです。
Ⅱ.みことば
1.わたしのもとに(マタイの福音書 11章28節)
「疲れ」や「重荷」のない人は、ないだろうと思います。それは、今から約2000年前にキリストがこの言葉を語られた時代にも、同じだったのではないでしょうか。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は」(28節)と呼びかけられた時、自分は全然関係ないと言える人はおそらく誰もいなかったでしょう。この言葉を聞いた西アジアのユダヤ地方の人々には、日々の衣食住の必要を手に入れる苦労、ローマ帝国に納める重い税金、社会の様々な決まりを守る責任など、様々な重荷があったはずです。
今の私たちの疲れや重荷とは何か?先程の松任谷由美さんの劇の上演当日のプログラムには、『聖書』の言葉と、友人の牧師のコメントが次のように載ったそうです。「あなたがいたから私がいた。私たちが生きていく中で、どの人にもそのように言える存在がいるように思います。両親、友人、先生、・・・。でも、そうした人たちにさえ、心の内をすべて理解してもらうことはできないものです。そして人は一人で生まれ、一人でこの世を去ります。ある意味で私たちは、様々な人とつながりつつも、究極的には孤独を背負って生きているものなのかもしれません」。
キリストは言われます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28節)。生活の苦労や社会や家庭での責任、孤独などの重荷や疲れからの休息を何に求めるでしょうか?様々な健全な娯楽から、脳を破壊するような危険なものまで、実に多くの選択肢が私たちの目の前にはあります。疲れや孤独を癒すために、何を選ぶのでしょうか?魂の安息のために、よく考えて選ぶ必要があります。「休ませてあげます」とお招きになるキリストのもとで休息を得ましょう。
2.わたしと共に(マタイの福音書 11章29~30節)
今の私たちにとって、休息とは何でしょうか?それは、重荷や苦労がなく、責任も何もなく、自分の自由に過ごすことでしょうか。もしそうならば、「休ませてあげます」と言ったあとで「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」(29節)と告げるキリストの言葉は矛盾のように見えます。しかし、一見束縛にも見える誰かとのつながりとか、責任などが全くないことが、本当に休息でしょうか。もしそれが休息なら、そこには孤独や退屈という別の重荷があるのではないでしょうか。
先ほどの松任谷由美さんの劇のプログラムに「私たちは・・・孤独を背負って生きている」と書いた私の友人はこう続けています。「しかし、同時に、私たちは年齢、性別、職業に関係なく、どの人も孤独では生きていけない存在であると思います。時に『ほっといてくれ』と思い、同時に『一人にはしないでほしい』とも思います。・・・人は誰かとつながっていたいと思うものです。でもどうやって心をつなげるのか。そして友情って、愛って、生きるって、私って、なんだろう…、と考え込んでしまいます。そうした問いや不安やもどかしさを抱えながら、迷いつつ、傷つきつつも、恐る恐る、また慎重に、人との友情、そして自分自身との友情を育んで歩もうとしているように思います。『聖書』に次のような言葉があります」。そして申命記31:8「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」と、マタイ11:28「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」を紹介し、そのあとコメントはこう続きます。「なんて励まされる言葉だろうと思います。孤独や不安を抱えつつ歩む私たち。でも神は、私たちにどこまでも寄り添い、導き、かけがえのない存在として愛し、決して見放さず、たとい迷い出ても必ず探し出してくれるのだと、『聖書』は語ります。だから恐れるな、大丈夫だ、と」。ユーミンの劇に、『聖書』の言葉。不思議ですね。
キリストがここで私たちを招いて約束しておられる休息とは、することも人とのつながりもなく、責任もない休息ではなくて、喜んで責任を果たすための休息です。私たちが人として活き活きと生きるための休息です。「わたしは心が柔和でへりくだっているから」(29節)と言われるキリストは、神の御子であるのにご自分を低くされ、人間になられたので、私たちの重荷をよく理解してくださっています。私たちの重荷や苦労を経験された上で、私たちの罪を背負って十字架で死なれ、3日目に復活されて罪と死に勝利されました。このお方が「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」(29節)と言われます。それは「わたしのくびきを共に負い、わたしと共に生活し、わたしが自分の重荷や苦労をどう背負って生きたかを見て学びなさい。わたしのくびきや重荷を、あなたが共に背負う日々は、かつてあなたが一人だけで背負った重荷よりも軽く感じるだろう」との招きです。
しかも、それは、あなたとキリストだけではありません。ここで、キリストは「あなた」と言われずに、「あなたがた」と言われました。キリストを信じて自分だけで過ごすのでなく、キリストを信じた他の人々と親しくなり、神様の家族である教会の仲間と一緒に、私たちは重荷を分かち合い、互いにつながりをもち、それぞれに与えられた生きる責任を果たしていくのです。詩篇133篇を聴きましょう。「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは」(詩篇133:1)。主によって神の家族とされたお互いが、互いにつながり、共に過ごす生活は、何と楽しいことでしょうか。生きておられる神様を共に仰ぎ、共に礼拝する交わりは、この地上での日々から始まり、天の御国での生活へと続いていきます。
Ⅲ.むすび
この新年の日々を、休息と活力の源であるキリストと結ばれ、神様の家族である教会の仲間とのつながりを楽しみ、重荷や苦労を分かち合って過ごしましょう。
(記:牧師 小暮智久)