2024年9月8日 礼拝説教 「天からのパン」

聖書: 出エジプト記 16章1~5節

Ⅰ.はじめに

 今日は、子どもと大人の合同礼拝です。合同礼拝では、教会学校の『聖書』の箇所から神様のことばをお聴きしています。教会学校は今、「モーセ」という単元で、目標は「神の民としてどう歩むべきかを知る」です。エジプトで奴隷として苦しい生活をしていたイスラエルの民は、モーセという人に導かれ、神様のすばらしいみわざによって、エジプトを脱出しました。しかし、そこは食べ物も飲む水もない荒野です。人々はどうしたでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.民の不平と神様の約束(出エジプト記 16章1~5節)

 何もない荒野で、イスラエルの人々はモーセとその兄アロンに向かって不平を言いました。3節をお読みします。人々は食べ物がないと言って、不平を言ったのです。

 そのとき、何が起きたのでしょうか?モーセとアロンが「どうしようか」と相談する前に、神様の方からモーセにある約束が語られたのでした。4~5節をお読みします。神様は毎日、天からパンを降らせると約束されたのです。しかも、お休みの日である7日目の前の日には2日分降らせるとまで、配慮に満ちた約束をしてくださったのです。この約束は、イスラエルの人々が神様に信頼して、その約束に従って毎日、天からのパンを集めるかどうかを試みるためでもありました。

 今の私たちにも神様は、毎日に必要なものを備えてくださいます。神様に信頼して毎日を過ごせるように、イエス様は私たちにこうお祈りするよう、教えてくださいました。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」(マタイ6:11)。

2.神様が与えられたもの(出エジプト記 16章13~30節)

 神様の約束のことばがあった日の夕方、神様が語られたとおり、うずらがたくさん飛んで来て、人々はうずらの肉を食べることができました(13節)。朝になると寝泊まりしたテントのまわりに露(つゆ)がおり(13節)、それが消えると荒野の表面に薄く、細かいものがありました(14節)。それは神様が与えてくださった天からのパンでした(15節)。人々が自分のテントの人数に応じてそれを集めると、ちょうど全員が満足する量でした(16~18節)。

 朝まで残してはいけないということばに従わず取っておくと、虫がわきくさくなりました(19~20節)。ただ、6日目は7日目の安息日のために2日分を集めることが命じられ、取っておいた分は翌日もくさくもならず、虫もわきませんでした(22~24節)。

 7日目にはないと言われていたのに、「ひょっとするとあるかもしれない」と集めに行った人がいましたが、もちろん何もありませんでした(27節)。7日目についての教えは特別な意味があります。28~29節をお読みします。7日目は安息の日、お休みの日なのです。その日には仕事をせず、お休みするのです。神様が天からのパンを与えられたのは、人々が神様のことば通りにするかどうかの訓練であったのです。

3.神様の愛と真実を証しするマナ(出エジプト記 16章31~36節)

 神様が与えてくださった天からのパンを、人々は「マナ」(「これはなんだろう?」という意味)と名づけました。色は白く、その味は蜜を入れた薄焼きのパンのようで甘い味でした(31節)。神様はのちの時代の人々が、荒野で食べたマナを見ることができるように、つぼに入れて保存するように命じ、そのとおりに保存されたのです(32~34節)。

  40年後、イスラエルの民が約束の地に入り、その地の食べ物を食べるようになった時、マナは降らなくなりました。それまでの間、神様は1日も欠かさず、1週間のうち6日間は毎日、マナを与えてくださいました(35節)。神様の愛と真実が、ここに豊かにあらわれているのではないでしょうか。

 今の私たちにも、神様は生活に必要なものは毎日、与えてくださるお方だと知ることができます。また、私たちはパンだけでなく、神様の口から出る神様のことばによって毎日、養われる必要があることを教えてくださっています。イエス様はご自分のことを天からくだってきた「いのちのパン」(ヨハネ6:48)だと言われました。

Ⅲ.むすび

 イエス様は私たちひとりひとりの身代わりとなって十字架で死なれ、3日目に復活されました。イエス様を救い主と信じる人は神様の子どもとされ、神様とのつながりを回復され、神様とともに一日一日を歩ませていただけます。「いのちのパン」であるイエス様に養われ、神様のことばに毎日養われるために、毎日、少しの時間でも『聖書』をひらき、神様のみことばをいただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)