2024年8月18日 礼拝説教 「イエス様のもとに」
聖書: ルカの福音書 9章37~45節
Ⅰ.はじめに
新しい5000円札を手にされたでしょうか?私はまだなのですが、その顔となった津田梅子は日本の女性の教育のために尽くした人です。詳しくは、1階の教会図書貸出コーナーにある『BIBLE and LIFE「百万人の福音」』の7月号を見ていただきたいのですが、梅子はわずか6歳でアメリカに留学し、8歳の時に自分の意志で洗礼を受けたクリスチャンです。彼女も『聖書』を読み、イエス様を救い主と信じたひとりだったのです。
この教会の礼拝では2017年5月から『聖書』の「ルカの福音書」を少しずつお聴きしております。今日はずいぶん久しぶりになりますが、3月3日の続きの所です。イエス様とはどのようなお方なのでしょうか?このイエス様と、今の私たちひとりひとりとは、どんな関係があるのでしょうか?また、イエス様と自分とは今、どのような関係でしょうか?『聖書』のことばに共にお聴きし、思い巡らしてみましょう。
Ⅱ.みことば
1.一人息子のいやし(ルカの福音書 9章37~43節a)
「次の日」(37節)とは、何の次の日でしょうか?それはイエス様が12人の弟子のうち3人だけを連れて山に登られ、イエス様のお姿が光り輝いたという出来事の「次の日」です。
「一行が山から下りて来ると」(37節)、「一行」とはイエス様と3人の弟子たちです。夜はおそらく山で泊まったのでしょう。「大勢の群衆がイエスを迎えた」(37節)。イエス様はこのころ、多くの病人を治したり、5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹にさせたりするなど、さまざまな奇跡を行なっていましたから、山からおりて来ると大勢の人々に囲まれたのはいつものことのように思えます。しかし、今日はいつもと様子が違っています。38~40節をお読みします。群衆の中から一人の人が叫ぶのです。それは、自分の一人息子のことでした。霊がその子にとりつくと、突然叫び、引きつけを起こさせ、あわを吹かせ、打ちのめしてしまうというのです。しかも、霊はなかなかその子から離れない。それで、イエス様が山に登っている間に、イエス様の9人の弟子たちに霊を追い出してくださいとお願いしたが、できなかったと言うのです。
これを聞いてイエス様はどうしたでしょうか?41節をお読みします。まず、なげきのことばを言われました。「いつまで、わたしは・・・我慢しなければならないのか」という嘆きには、イエス様が天の父なる神様のみもとを思い浮かべつつ我慢している気持ちがよくあらわれているように思います。イエス様の忍耐、天の父なるみもとに帰りたいという気持ちなどがあらわれているのではないでしょうか。そして、招きのことばです。「あなたの子をここに連れて来なさい」(41節)。今の私たちにも、もし悩みや問題があるなら、それをイエス様のもとに持って行きましょう。イエス様はそのけがれた霊を叱り、その子をいやし、父親に渡されたのでした(42節)。
山に登らなかった9人の弟子たちは、この人の息子から霊を追い出すことができなかった。ならば、イエス様が山からおりてきた時に、この人よりも先に、イエス様のもとに行き「私たちにできなかったのです」と訴えなかったのはなぜなのでしょうか。私たちは、まず、イエス様のもとに行き、問題をイエス様に持って行く者でありたいと願います。
2.イエス様の受難予告(ルカの福音書 9章43b~45節)
イエス様はこのあと、弟子たちに大切な予告をします。43b~44節をお読みします。「人の子」とは、ご自分のこと、救い主のことです。救い主は人々の手に渡され、捕らえられてしまうという予告です。これは、弟子たちにとって初めて聞く予告ではありません。9章22節をお読みします。イエス様は、ご自分が多くの苦しみを受け、指導者たちに捨てられ、殺され、3日目によみがえると、すでに予告しておられました。今回の予告で言われているのは、今は人々が驚き、喜び、歓迎しているが、やがて人々はイエス様を訴え、捕らえるようになるということです。
弟子たちは、この予告を聞いてどうしたか?45節をお読みします。彼らは理解できませんでした。「隠されていた」とも書かれています。このことばについてイエス様に尋ねるのを恐れていたというのは、彼らの問題です。恐れていても、理解できなかったのなら、イエス様に尋ねればよかったのではないでしょうか。
弟子たちを含め、当時の人々の「救い主」のイメージとは「勝利者」であり、「解放者」でした。ローマ帝国の支配から解放し、イスラエルを独立国にしてくれる、それが彼らにとっての「キリスト」(救い主)のイメージでした。ですから、救い主は長老や祭司長たちなどの当時の指導者たちから支持され、あがめられるはずでした。指導者たちに捨てられ、殺されるなんて、そんなはずがないと弟子たちも考えていたに違いありません。
ところが実際には、イエス様は指導者たちだけでなく、人々にも見捨てられ、当時の極悪人が処刑される十字架につけられる。神様の知恵は人間の考えを超えています。「勝利者」とは正反対の「敗北者」に見える十字架での死によってキリスト(救い主)は、単なるイスラエルの独立ということではなく、全人類の敵である罪と死からの「救い」を成し遂げ、勝利を得られたのです。今の私たちは、イエス様の受難の予告の意味がわかっているでしょうか?イエス様が十字架につけられたことの意味が、ほんとうにわかっているでしょうか?それがよくわかるように、イエス様のもとに行きましょう。
Ⅲ.むすび
イエス様の弟子たちが、イエス様の受難の予告を理解したのは、事が実際に起きてから、あるいは3日目に復活されたイエス様と出会ってから、さらには、聖霊がくだられたペンテコステの日以降でしょう。弟子のひとりペテロはこう書きました。Iペテロ2:22~25をお読みします。イエス様が、私たちの神様に対する背きの罪をその身に負われ、十字架で死んでくださり、3日目に復活されたことを感謝しましょう。日々さまざまなことがある中で、十字架のイエス様のもとにとどまりましょう。そして、イエス様の十字架を誇り、人々に十字架のイエス様を証ししましょう。
(記:牧師 小暮智久)