2024年8月4日 礼拝説教 「神の子どもと祈り」

聖書: マタイの福音書 6章8~9節

Ⅰ.はじめに

 この夏、毎日のようにテレビや新聞などで取り上げられているのは、パリオリンピックのことです。しかし、日本に住む者としてこの夏の季節に忘れてはならないことは、やはり6日、9日、15日のことではないでしょうか。広島と長崎への原爆投下、そして、敗戦記念日です。また、東住吉区にある教会として忘れてはならないことは、1945年7月26日に投下された「模擬原爆」のことです。この「模擬原爆」というのは、原爆を投下するための訓練として全国44か所に落とされた大型爆弾で、そのうちの1つが東住吉区田辺に投下され、大きな被害があったのです。ご存じだったでしょうか?二度と繰り返さないためにも、風化されつつある出来事を語り伝えていく必要があるのではないでしょうか。

 私たちの教会の今年度のテーマは「私たちは神の愛する子ども」です。これも、風化させたり、色あせたりさせてはならないことです。私たちは、イエス様を救い主と信じて、「神の子ども」とされたことを、毎日新鮮な思いで感謝して受けとめているでしょうか?自分が「神の子ども」とされているということは、毎日の生活でどんな意味をもっているのでしょうか?特に、お祈りとの関連でどうなのか、ともにみことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.天の父の子どもの祈り(マタイの福音書 6章8節)

 私たちは日ごろ、いつ、どのように、お祈りしているでしょうか?私は、食事の前にはたいていだまってお祈りしています。内容は、食事の感謝と、特に気にかかる人のためのお祈りです。朝、さんぽのあとにも自分の部屋でお祈りします。みことばを読んだあと、ひとりなので声を出してお祈りしています。みことばから感じたことや疑問を神様にお話しし、教会の人々や近所の人々や友だちなどのためにお祈りします。

 今から約2000年前のイエス様の時代には、人に見せるために、目立つようにお祈りする人がいたようです。5節をお読みします。今の私たちはどうでしょうか?人の前で、いわば公的にお祈りすることがあります。その際には、ことばを選んだり、そこにいる人々に配慮したりする必要はありますが、人にどう思われるか意識する必要はありません。微妙でむずかしいことですが、自分が人にどう思われるかではなく、「自分は今、神様にお話ししているのだ」と強く意識する必要があるのではないでしょうか。また、長く、ことば数を多く祈らなければ聞かれないということもありません(7節)。イエス様は自分の罪のために十字架で死なれ、3日目に復活された救い主だと信じた人は、「神様の子ども」とされているのですから、ことばは少なくても素直に、そして、大胆に、神様に近づいて、神様にお話しすることができるのです。8節をお読みします。だから、目立つように祈らなくてよい。ことばの数を多くしなくてもよい。親が子どもの必要を知っているように、天の父は、ご自身の子どもである私たちの必要を求める前から知っておられるのですから。

2.なぜ、祈るのか(マタイの福音書 6章9節)

 天の父は、私たち神様の子どもが求める前から、私たちに必要なものを知っておられます。ならば、どうして祈る必要があるのでしょうか?

 お祈りとは、自動販売機のような、お金を入れてボタンを押すと商品が出てくるという機械的なものではありません。お祈りとは、神様に注文すると、何かが届けられるという物流サービスのようなものではないのです。お祈りとは、神様と私たち神の子どもとの思いや心の交流です。天の父と、子どもである私たちとの間の、親子のふれあいなのです。天の父は私たちに何が必要か、祈る前からすべて知っておられますが、私たちが自分の心で自発的に祈り求めるという、親子の交流を求めておられるのです。

 「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」とイエス様は言われました。9節をお読みします。このことばが、「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる」(8節)ということばのすぐあとに置かれていることは意味深いのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 ですから、私たちは祈りましょう。「天にいます私たちの父よ」と。こうお祈りを始める時、天の父である神様は喜んで、耳をそばだてて、私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。イエス様が親しく「天の父よ」と祈られたように、私たちもイエス様の十字架と復活のゆえに、イエス様のお名前によって、大胆に、素直に「天の父よ」と祈らせていただこうではありませんか。

(記:牧師 小暮智久)