2024年7月28日 礼拝説教 「ここまで主が」

聖書: サムエル記 第1 7章1~17節

Ⅰ.はじめに

 説教の前の讃美歌2つの中には「祈り」ということばが出てきました。『聖書』が言う「祈り」とは、単に「合格祈願」「安産祈願」のような「お願いごと」だけでなく、神様とお話することを意味します。神様との対話、会話と言ったらよいでしょうか。それは、私たち人間が最初、神様によって造られ、神様の語りかけを聞き、神様に応答する者として造られたことに、その出発点があります。『聖書』は、神様と私たち人間とのやりとりを大切なテーマとして取り上げており、「祈り」はその表現のひとつです。

 この教会の礼拝では、『旧約聖書』の「サムエル記」を2022年1月から少しずつお聴きしていて、今日は久しぶりに2月18日の続きの所です。この箇所にも「祈り」ということばが出てきました(5節)。時は紀元前1050年ごろ、所は西アジアのイスラエルとガザの今も戦いが続いているあたりです。今から約3000年前、日本の歴史で言えば、縄文時代の遠い昔の出来事ですが、今の私たちに少しでも身近に感じられるように、みことばを取り次ぎたいと願っています。神様は今日、ここから何を語っておられるのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.神の民の現状(サムエル記 第1 7章1~4節)

 「キルヤテ・エアリム」とはエルサレムの西約20kmの所にある町です。そこの人々が自分たちの町から南西約15kmの所にあるベテ・シェメシュという所から「主の箱」を丘の上の家まで運び上げたのでした(1節)。「主の箱」とは、神様がそこにおられるというしるしです。直前にはその箱の中身を見た人々が死ぬという出来事がありました(6:19~21)。人々は恐る恐る、慎重に「主の箱」を運んだと思います。箱はキルヤテ・エアリムにとどまって長い年月がたち、20年が過ぎました。

 「イスラエルの全家は主を慕い求めていた」(2節)。神様を大切に思っていたということでしょうか。あるいは、何か問題があって、神様を呼び求めていたということでしょうか。

 その両方かもしれませんが、イスラエルの人々は神様に信頼し、神様を求めていたのです。

 しかし、それとは矛盾するようなことも言われています。3節をお読みします。彼らは「心のすべてをもって」主に立ち返ってはいなかったのです。具体的には、異国の神々やアシュタロテという女神を拝んでいました。つまり、彼らにとって「主である神」は多くの神々の一つであって、主にのみ礼拝をささげていたわけではなかったのです。神様に選ばれたはずのイスラエルの民、神の民の矛盾した姿ですが、これがこの時の神の民の現状でした。彼らはほかの神々を取り除き、「主にのみ仕えた」(4節)のでした。

 今の私たちはどうでしょうか?イエス様を神様がお送りくださった救い主(キリスト)と信じるなら私たちも「神の民」に加えられます。私たちは主にのみ仕えているでしょうか?神様にのみ信頼しているでしょうか?たとえば、会堂建築という課題についても、主にのみ信頼し、主のみこころを求めているでしょうか?

2.神の民の献身(サムエル記 第1 7章5~12節)

 ここに4章1節以来久しぶりにサムエルという人が登場します。5節をお読みします。ミツパとはエルサレムの北約10kmの所の場所で、そこにイスラエルの人々は全員、言わば「対面で」集められたのです。今はオンラインやリモートなど、会わなくても仕事や会議ができる便利な時代になりましたが、やはり直接「対面で」会うということの価値はあるのではないでしょうか。特に、主の前に共に出るというとき、対面で集まるということは大切ではないでしょうか。彼らはそのように直接集まって何をしたか?6節をお読みします。彼らは自分たちの罪を認め、断食をし、悔い改めたのです。

 その後、サムエルは「全焼のいけにえ」をささげ、神の民が神様に自分をささげる、「献身」をあらわしたのですが(9節)、その間に敵であるペリシテ人たちが攻めてくるという試みを神の民は経験したのでした(7節)。神様に真剣に祈ろうとすると、何か心配事を思い出す、あるいは、していなかったことを思い出して気になる、ということが、今の私たちにもあるのではないでしょうか。神様に真剣に立ち返ろうとすると、それをはばもうとする試みや誘惑があります。恐れや不安がやってくるかもしれません。そんな時に祈ること、または、だれかに祈ってもらうことはとても大切です。このときはサムエルが祈った。そして、主は答えてくださった。8~10節をお読みします。主が雷鳴をとどろかせ、ペリシテ人は打ち負かされたのでした。サムエルはその後、どうしたか?12節をお読みします。一つの石を記念とし、それに名をつける。それは「ここまで主が私たちを助けてくださった」という記念、証しでした。今の私たちも、イエス様を信じて以来、今日までいろいろなことがあったかもしれません。これまでをふり返り、恐れの時、不安の時、試みの時もあったかもしれませんが、ここまで主が自分を助けてくださったと感謝しましょう。

3.神の民の回復(サムエル記 第1 7章13~17節)

 このあと、ペリシテ人は征服され、イスラエルの領土に入って来ませんでした(13節)。それだけでなく、ペリシテ人に奪われていた町々がイスラエルに返還され、イスラエルの領土は回復されたのです(14節)。神の民の悔い改めと献身の結果、神様は神の民を回復してくださったと言えるのではないでしょうか。

 また、サムエルが一生の間、イスラエルの指導者として活動したことが記されています(16~17節)。その巡回範囲は決して広くなかったようですが、彼は家のあるラマに祭壇を築き、祭司として人々のためにいけにえをささげ、とりなしをしたのでした。

Ⅲ.むすび

 今の私たちの生活の現状はどうでしょうか?『聖書』が示す神様のみを礼拝し、主にのみ仕えているでしょうか?それとも、神様以外のものを神様以上に大切にし、それに仕えているでしょうか?また、今の私たちの教会の現状はどうでしょうか?神様のみを礼拝し、主にのみ仕えているでしょうか?それとも、神様以外のものを神様以上に大切にし、それに仕えているでしょうか?神様は私たちひとりひとりを常に愛し、そのしるしとしてサムエルの時代の約1000年後、今から約2024年前にイエス様を救い主としてお送りくださいました。イエス様は私たちの身代わりとして十字架にかけられて死んでくださり、3日目に復活されました。その事実にあらわされている神様の愛に、私たちはどう答えるのでしょうか?もしも、神様以外のものを神様以上に大切にし、それに仕えていることに気づいたなら、その罪を認め、そこから主に立ち返りましょう。そして、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と主に感謝しましょう。

(記:牧師 小暮智久)