2024年7月14日 礼拝説教 「神の召し」

聖書: アモス書 7章14~17節

Ⅰ.はじめに

 「召し」と聞いて「焼きめし」とかの「めし」を思い起こす人は、おなかがすいているのかもしれません。ふだんの生活では「召し」「召す」ということばは、あまり使わないでしょうか。辞書をひくと「呼びよせる」「呼び出して任じる」の尊敬語と書かれていました。「神の召し」と言えば「神様の呼び出し」という意味になるでしょう。神様が私たちを「召す」というとき、それはどのような呼び出しなのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.「聖化」への召し ― すべての人への招き

 世界で最初の神様の「召し」とは何でしょうか?それは、最初の人を神様が造られたとき、人に言われたことではないでしょうか。創世記1:27~28をお読みします。神様は、人を地に満ちるようにと呼び出し、地を従えて動物たちを支配せよと任務をお与えになったのです。それは横暴な支配ではなく、誠実な世話と言ったらよいでしょう。そのために、アダムとエバは人類最初の夫婦として2人で協力して、地球の自然環境を、動物たちを世話するようにという使命のために「召された」のです。その使命を果たすには、神様のことばを聞く必要がありました。神様を愛し、神様のことばを聞いてそれに従い、自分を愛するようにお互いを愛して、協力し合って、この使命を果たすことができたのです。

 ところが、彼らが神様のことばに逆らったとき、神様との関係も、夫婦の関係、すなわち人と人との関係もこわれてしまいました。環境の破壊もその時に始まったと言えます。

 神様は、ご自分と私たちとの関係、私たちの人間関係の回復のために、ご計画を立て、様々な人を「召し」、使命を与えました。その一人がアブラハムです。創世記17:1をお読みします。彼への「召し」は「全き者であれ」、つまり、最善を尽くして神様を愛し、自分と同じように隣り人を愛するという「聖化」への「召し」でした。失敗もあるアブラハムは「きよめ」「聖化」へと召された見本だったのです。今の私たちも、「聖化」へと召されています。その入り口が「救い」、イエス様を信じることで、「全き聖化」「全き愛」と呼ばれる経験は「聖化」の全体の中での通過点です。

しかも、「聖化」への召し、神様を愛し、自分と同じように隣り人を愛するという生き方への神様の呼び出しは、自分ひとりでは実現できません。「愛する」とは自分と誰かとの関係の問題だからです。アブラハムは子どもや子孫との関係、民の中で、「聖化」への召しに応え、今の私たちは「教会」という人との関わりの中で「聖化」への召しに応えるのです。イエス様を信じた人は「召された」(Iコリント1:2)人々とも表現されています。

 神様は今も、すべての人を「聖化」へと召しておられます。神様を愛し、自分と同じように人を愛して生きるようにと、神様はすべての人を招いておられます。その「聖化」の入口が「救い」であり、イエス様を信じて「救い」を与えられた人は「全き愛」「全き聖化」「きよめ」という通過点を経て、さらに「聖化」への召しに応え、神様への愛と人への愛において深められていくのです。この神様の「召し」には例外はありません。神様は、すべての人がご自分を愛し、人を愛するあり方に回復するようにと、イエス様をお送りくださり、十字架での死と3日目の復活によって、その入口を開いてくださったのです。

2.「働き人」への召し ― すべての人に仕えるために

 神様は、すべての人を「聖化」へと召しておられ、そのご計画を実行・実現するためにさまざまな「働き人」を召し、任命し、派遣されます。その実例のひとりが先ほどお読みいただいた『聖書』の箇所のアモスという人です。その時代背景などについては、1階の集会室にある『聖書の世界と今の私たち』というファイルのプリントをご覧ください。これは、2013~2023年にこの教会の水曜日の「聖書の学び」で共に学んだプリントです。それぞれのページに数枚のコピーも入れてありますので、自由にお取りください。

 アモスは紀元前8世紀に南王国ユダで生まれた人ですが、神様に預言者として召されて、北のイスラエル王国に出かけて行って神様のことばを伝えるという任務を果たします。当時、北のイスラエル王国は貿易収支が黒字となり経済的に繁栄していました。しかし、豊かになったのは都市部の上流階級のみで、貧富の格差が広がり、社会の秩序は乱れ、正義は曲げられ、神礼拝は形式的となり、偶像礼拝が広がっていたのです。今の日本と似ていますね。そんな時代にアモスは「神の召し」を受けました。彼の証しを聴きましょう。アモス7:14~15をお読みします。彼は羊飼いであり、いちじく桑の栽培もする人でした。しかし、主がある時、彼に呼びかけ、預言者として召したのです。「主が」と2回繰り返されていることは、「召し」の主導権が神様にあることの強調です。彼は「主はこう言われる」(7:17)と言って、神様から預かったことばを人々に伝えました。それは時に、神様によるさばきの宣告であり(7:17,8:11)、時に神様による救い、回復の預言でした(9:11~15)。

 私の場合にはこうでした。星が好きだった私は高校時代には、天文台で働くか、望遠鏡を作る会社で働きたかったのです。高校3年の春休み、教会学校教師となる訓練会に参加し、ローマ12:1が語られ、私は何の条件もつけず、神様に自分の人生をささげました。ここまではすべての人に対する神様の召しです。大学4年の夏、山で私は神様のみこころを求めて祈りました。その時、心に迫って来たのはマルコ10:14でした。神様は子どもへの伝道のために自分を召しておられると思い、1985年に聖書神学舎という神学校に入学しました。そこでも将来のために具体的に祈る中で、子どもだけでなく、伝道だけでなく、神様は自分を牧会という働きへ召しておられると使徒20:28によって示され、それに応えて、神学校卒業後、当時、教団の指定校であった大阪キリスト教短大神学科の特別聴講生として1年学び、1989年に東住吉教会に伝道師として任命されたのです。

 今日は、私たちが属する日本フリーメソジスト教団の「伝道献身者奨励日」です。神様は今も、教会の中から「働き人」を召し、すべての人に対する「聖化」への召しを実行するために、教会員を整えるために「牧師」「伝道者」「宣教師」などにお立てになります。エペソ4:11~12をお読みします。神様が召し、それに応えた人を「伝道献身者」と呼び、その人は神学校で3~4年の訓練を受け、それぞれの働きにつきます。そのような人が起こされるように、祈りましょう。特に今、教団では26教会・伝道所のうち8つの教会に専任の牧師がおらず、兼任となっており、牧師の高齢化が進み、牧師が不足しています。

Ⅲ.むすび

 あなたは今までに、神様から牧師になるようにとの「召し」を聞いたことはありませんか?もし、あるなら、もう一度そのことを思い起こし、祈りましょう。また、あなたはこれまでに、この教団に牧師や宣教師をさらに起こしてくださいと祈ったことはありますか。もし、ないなら、是非祈っていただきたい。神様は今も「働き人」を召し、ご自身の働きをお進めになります。神様に期待し、祈りましょう。

(記:牧師 小暮智久)