2024年7月7日 礼拝説教 「神の子どもの特権」
聖書: ヨハネの福音書 1章9~13節
Ⅰ.はじめに
私たちがイエス様を信じる前と、信じたあとでは、何がどのようにちがうのでしょうか?私は大学2年の時に銀座の教文館という本屋さんで『神について』という本を買いました。500ページを超える厚い本ですが、とても興味深くて、通学する電車の中で赤線を引きながら読みました。その本の中で一番長い章は「神の子たち」というタイトルです。この本の著者であるJ.I.パッカーという人は「神の子ども」というテーマをとても重要なものとして扱っていると思いました。そこには、「クリスチャンとはどんな人ですか?」という問いに対する最も内容の豊かな答えは「クリスチャンとは、神の子どもであり、神を自分の父と呼べる人です」と書かれており、とても深く印象に残りました。
私たちの教会の今年度のテーマは「私たちは神の愛する子ども」です。私たちがイエス様を信じて、「神の子ども」とされたということは、毎日の生活でどんな意味をもっているのでしょうか?ともにみことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.「神の子ども」とされるには?(ヨハネの福音書 1章9~13節)
「神の子ども」とは誰のことでしょうか?「人類みな兄弟」とよく言われます。「世界が平和であるように」という願いが込められているとすれば、決して悪い表現ではないでしょう。「みな兄弟」ということは、親は同じ。それが何らかの「神」を指しているとすれば、「人類はみな神の子どもである」という考え方につながるのかもしれません。しかし、神のことばである『聖書』には、すべての人が生まれつき神の子どもであるという考え方はありません。「すべての人が神様によって造られた者である」ということは『聖書』が明確に語っていることです。しかし、すべての人は生まれつきのままでは、神様の子どもではないのです。「神の子ども」とは、神様との親子関係を示しています。神様を「お父さん」と呼べる間柄です。すべての人は、神様によって造られ、生かされていますが、神様を「お父さん」と呼べるほどに神様を親しく知り、親しいつながりや関係の中にはないのです。
では、「神の子ども」とされるには、私たちはどうしたらよいのでしょうか?それこそが、イエス様というお方がこの世界に来られた目的です。「すべての人を照らすそのまことの光」(9節)とは、イエス様のことです。イエス様は、神様に造られたのに神様から離れ、やみの中を歩んでいるのにそれにも気がつかない私たちを照らす光として、今から約2024年前に、この世に来てくださいました。これがクリスマスの出来事です。このイエス様はそれ以前から存在しておられ、この世界はイエス様によって造られたのに、人々はこのお方を知りませんでした(10節)。このお方はご自分の民イスラエルに来られたのに、イスラエルの民の多くはイエス様を受け入れませんでした(11節)。では、このお方を受け入れるとどうなるのか?12節をお読みします。このお方、イエス様を受け入れた人には「神の子どもとなる特権」が与えられるのです。つまり、私たちが「神の子ども」とされるには、イエス様を救い主と信じ、受け入れさえすればよいのです。あなたはどうですか?神様に背いてきた自分の罪のために十字架で死なれ、3日目に復活された救い主としてイエス様を受け入れておられるなら、あなたはもうすでに「神の子ども」とされているのです。
2.「神の子ども」とされた人(ヨハネの福音書 1章12節)
イエス様を信じた人は、誰でも例外なく、もうすでに、「神の子ども」です。なぜ、そう断言できるか?『聖書』が、神様のことばが、ヨハネ1:12でそのように約束しているからです。神様はうそをつくお方でしょうか。神様はうそをつかず、約束を守るお方です。ヨハネ1:12はその神様の約束ですから、何よりも確かなのです。
イエス様を信じた人は「神の子ども」です。では、私たちは「神の子ども」であることのすばらしさを、充分に味わい、喜び、楽しんでいるでしょうか?もし、そうでないなら、あまりにもったいないのではないでしょうか。私の知っている人が、世界一周旅行に出かけました(もう帰られたかもしれません)。おそらく豪華客船による旅行でしょう。その切符には何が含まれているでしょうか。ある人が、その切符には運賃と宿泊代しか含まれていないと思い込んで、部屋の中でじっと過ごしているとしたらどうでしょうか。実はその切符には、旅行中のすべての食事代と、船のあらゆる設備、たとえば映画館、プール、ジム、ゲームセンターなどあらゆる娯楽施設を無料で利用できる権利も含まれていたとしたら、どうでしょうか。その権利を使わないのはあまりにもったいない。私たちは「神の子ども」であるという特別な権利、特権をどれだけ、生かして用いているでしょうか。
では、「神の子ども」の特権とは何でしょうか? J.I.パッカーによると次の4つです。
第1に、天の父の主権のもとで生活する特権です。イエス様を信じた人は罪と滅びから自由にされました。しかし、その自由を肉の働く機会とせず、自分の欲を満たすために用いるのではなく(ガラテヤ5:13)、神様の主権を尊重し、神様に導かれて、神様に喜ばれるように生活することが自分の喜びとなるという特権です。
第2に、天の父の愛情を実感して生活する特権です。イエス様を信じる前から私たちは、神様に愛されていました。しかし、イエス様を信じてからの違いは、「あなたはわたしの愛する子ども」と呼ばれ、天の父の愛されていることを実感できることではないでしょうか。
第3に、天の父との交わりを楽しむ特権です。イエス様を信じる前の自分にとって、神様とはよくわからない存在、こわい存在だったかもしれません。イエス様を信じて「神の子ども」とされてからは、神様は「天のおとうさま」と呼べる親しいお方となりました。イエス様のお名前によってお祈りできる(ヨハネ16:23)という特権を生かして用いて、私たちは天の父との交わりを喜び、楽しみ、さらに親しくされましょう。
第4に、天の父に重んじられるという特権です。イエス様を信じたということは、かろうじて滅びないで、ギリギリセーフで天国に行けるというあやうい立場ではありません。イエス様を信じて「神の子ども」とされた人は、イエス様に仕え、その人を天の父は重んじてくださるのです(ヨハネ12:26)。
Ⅲ.むすび
イエス様を救い主と信じている人は、自分が「神の子ども」とされていることを、今日改めて、神様に感謝しましょう。そして、これからの日々を、「神の子ども」とされている特権を喜び、楽しみ、生かして用いて過ごそうではありませんか。特に、お祈りする時のはじめに「神様」とか「主よ」と呼びかけるだけでなく、「天のお父様」と呼びかけてみてはどうでしょうか。自分が「神の子ども」であることを実感できるのではないでしょうか。
まだ「神の子ども」とされていない人は、今日、イエス様を救い主と信じましょう。この世界を造られたお方の子どもである以上に心強いことはありません。
(記:牧師 小暮智久)