2024年6月16日 礼拝説教 「なぜ、教会はあるのか?」

聖書: マタイによる福音書 16章13~20節

Ⅰ.はじめに

 日本フリーメソジスト東住吉キリスト教会の献堂式(教会の会堂が完成して神様にお献げする式)は、58年前の1966年6月19日に行なわれました。私たちの教会が阿倍野区丸山通から、ここ東住吉区に場所を移し、教会堂を建て、ここでの歩みを始めて、今年で58年。今日は特にこのことを覚え、主に栄光を帰する礼拝です。

 教会はそれ以前から存在していました。私たちの教会のスタートは、1923年6月24日、大阪第3自由メソヂスト教会の発足にさかのぼることができ、今年で101年です。

 その意味で今日は、「教会とは何か」を改めて受け取り直す恵みの機会だと思います。キリストの教会は人間の集まりですから時にいろいろな問題や混乱や課題を抱えます。とても残念なことですが、教会の煩わしさに嫌気がさして教会を離れる人もいます。それでも、「教会」というものが58年とか101年だけでなくその前から、2000年間にわたって存在しているのはなぜなのでしょうか。この朝は、私たちが教会に所属する理由や目的を受け止めるためにも、私たちの主、イエス・キリスト様の語りかけを、共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.なぜ教会はできたか(マタイ16:18)

 「なぜ、教会はあるのか?」を考えるときに、どうしても行き着く問いは「そもそも教会というものを考え、つくったのは誰か」という問いです。

「教会」というものの創立者は誰でしょうか。この教会の101年前の大阪第3自由メソヂスト教会の発足当時の役員でしょうか。いいえ。では、2000年前のイエス様の弟子たちが相談して教会を創立したのでしょうか。いいえ。弟子たちは「教会」をつくるつもりはありませんでした。

 キリスト教会の創立者は誰か。16:18を聞きましょう。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われたお方、つまり、イエス様こそが2000年間にわたる全世界におよぶすべてのキリスト教会の発端におられる創立者なのです。イエス様のこのことばによって、教会は存在するようになりました。教会が存在する理由はここにあります。この場合の「教会」とは建物ではなく、イエス様をキリスト(救い主)と信じる人々の集まりを指します。それをイエス様は「わたしの教会」と呼ばれます。イエス様をキリストと信じ洗礼を受けた人はだれでも例外なく、イエス様の教会の一員とされているのです。

2.教会はどこにつくられるのか(マタイ16:13~18)

 イエス様の「教会」はどこにつくられるのでしょうか。「わたしはこの岩の上に」(16:18)とイエス様は言われました。「この岩」とは何か。ローマ・カトリック教会は、「この岩」とはペテロのことだと考え、ペテロの後継者の法王こそが、教会の土台だと主張します。私たちプロテスタント教会は、「この岩」とはペテロ本人ではなく、ペテロがイエス様に答えた「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(16:16)という信仰の告白のことだと考え、教会はこの信仰告白の上につくられるのだと主張してきました。

 しかし、「この岩」とは本当にペテロと無関係なのでしょうか。というのは、ペテロがイエス様に「あなたはキリスト」と言ったこと(16:16)と、イエス様がペテロに「あなたはペテロ」(16:18)と言われたことは明らかに対応しているからです。イエス様はここで「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に」と明らかにペテロに向かって言われたのであり、「この岩」とはやはりペテロのことではないか、しかもそれはカトリック教会と同じ意味でではなく、「イエス様をキリストと告白したペテロ」の上に教会を建てるとイエス様は言われたのではないか、とプロテスタント教会の中で言われ始めています。

 つまり、カトリック教会の言うようにペテロの後継者の上に教会がつくられるというのではなく、あるいは、信仰を告白する人間と無関係に、イエス様をキリストとする正しい信仰の言葉だけが教会の土台になるというのでもなく、イエス様をキリストと告白する「人」によって、イエス様の教会はそこにつくられるとイエス様は言われたのではないでしょうか。イエス様は人間として完璧なペテロでなく、弱さもあり、失敗もしたペテロや弟子たちを「教会」としてかたちづくられました。そして今もイエス様は、ご自分をキリストと信じるあなたを「教会」に加えてくださり、イエス様の教会をかたちづくられるのです。

3.教会を生かしているのは誰か(マタイ16:18~20)

 教会に与えられているいのちとは何か。それは、よみ(死)の門も教会に打ち勝てないほどのいのち、死に勝利するいのちです(16:18)。

 教会の権威と何か。それは「天国のかぎ」(16:19)と言われるイエス様から託された福音に基づく権威です。つまり、イエス様を信じる人には救い(罪のゆるしと永遠の命)が宣言され、イエス様を拒む人には滅びが宣言されるという厳粛な権威です。それは教会が作り出した権威でなく、イエス様が教会のかしらである場合に限り、本来の意味をもつ権威です。

 教会のいのちも権威も、イエス様から離れると健全でなくなってしまいます。教会は弱さや欠点をもち、まちがいを犯しやすく、特に日本では教会は小さい存在です。私が初めて行き、イエス様を信じて、今からちょうど50年前にジェイコブ・デシェーザー宣教師から洗礼を受けた所沢グレース教会は、この礼拝堂の3分の1ぐらいの建物で、当時20名前後の礼拝でしたし、今も日本ではクリスチャンは100人に1人未満と少数です。しかし、そのような教会を生かしておられるのは誰か。それはイエス様です。この世界を造られた神様に対する私たち一人一人の背きの罪を、身代わりに背負って十字架で苦しみ死んでくださったイエス様、3日目に復活されたイエス様が、今も教会を生かしておられるのです。

 教会がイエス様によって生かされているということは、教会はつねにイエス様によってそのあり方を問われているということでもあります。16:20は不可解なご命令ですが、この時の弟子たちは、イエス様がキリストであると言ってはならないと命じられました。それは、当時の人々のキリストについての勝手なイメージが先行するのを避けるためであったと思われます。イエス様の十字架と復活により、神様と人との和解の道が与えられ開通してからは、この喜びの知らせを、和解の道であるキリストを、すべての人に伝えるようにとイエス様は命じておられます(マルコ16:15)。教会はこのキリストに従っているでしょうか。教会は、そしてキリスト者は、つねにキリストに問われ、応答する存在です。

Ⅲ.むすび

 イエス様は今朝、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(16:15)と問いかけ、ご自身に従う応答を求めておられます。あなたはどう応答しますか。

(記:牧師 小暮智久)