2024年6月9日 礼拝説教 「神様の前で」
聖書: 創世記 32章22~32節
Ⅰ.はじめに
毎週日曜の朝の「教会学校」で今見ているヤコブという約4000年前の人は、お兄さんエサウという人の権利を奪ってつらい気持ちにさせました。お兄さんは弟ヤコブを殺してしまおうとさえ考えたのです。そんなお兄さんにヤコブは20年ぶりに会おうとしています。お兄さんと会う前に、ヤコブに何が起きたのかを一緒に見ましょう。
Ⅱ.みことば
1.ある人が(創世記 32章22~24節)
この教会の南の方に大和川という川があります。その川を渡ると大阪市から松原市などになります。ヤコブもこの時、川を渡ろうとしていました。川を渡るとそこは20年ぶりのふるさとです。お兄さんと会うのももうすぐです。家族や持ち物を全部、向こう岸へ渡らせ、ヤコブはひとりあとに残ります。どんな気持ちだったか?会いたい気持ちもありますが、こわかったのではないでしょうか。20年前、自分がひどいことをした。その仕返しをされるかもしれないと思ったからです。不思議なことが起きたのはその時です。どんなことでしょうか?
「ある人が夜明けまで彼と格闘した」(24節)。夜中の取っ組み合い、徹夜のレスリングです。この格闘を始めたのはどちらでしょうか?ヤコブではありません。この「ある人」の方です。心配な時、困った時、近づいて来る「ある人」がいるのです。まるでイエス様が「わたしに何をしてほしいのですか」(マルコ10:51)とある人に言われた時と似ています。私たちがお祈りする前に、耳を傾けようと近づいて来る方がいるのです。
2.あなたの名は?(創世記 32章25~32節)
『聖書』の英語訳ではレスリングと書かれている、この不思議な格闘はどうなったのでしょうか?「その人はヤコブに勝てないのを見てとって」(25節)とあります。ヤコブの勝とうとする気持ちは強かった。「負けてたまるか。これで負けたらこれまでの苦労や犠牲が無駄になる」という自分へのこだわり、プライドの高さでしょうか。意地でも負けないという強情さにも見えます。お兄さんとの仲直りのためには、その負けず嫌いが、勝とうとする強情さが、砕かれる必要があったのに、ヤコブはなかなかそれに気づきません。ついにこの「ある人」は非常手段をとります。それは反則にも見えるような「関節技」です。ヤコブのももの関節ははずれてしまいます(25節)。これは夢だったのでしょうか。朝になってヤコブが「そのもものために足を引きずっていた」(31節)のを見ると、夢ではありませんでした。
それにしても、この「ある人」とはいったい誰か?不安な気持ちに、自分で何とかして打ち勝とうとする私たちの強情さを打ち砕こうとするこの人。それは、「負けてたまるか」という私たちの強情さ、神に対する私たちの反抗心や歪んだプライドを、私たちの代わりに背負って十字架につけられたイエス様のお姿を指し示してはいないでしょうか。
以前の関西聖会で信徒の方の証しがとても印象に残っています。牧師の家に育ち、今は信徒として生活している男性の証しです。彼は高校の時に洗礼は受けたもののキリストを信じていたわけでなく、牧師である父親が若くして天に召されて牧師館から出ざるを得なくなり、教会に行かなくなりました。教会から解放された自由を感じ、同時に何とも言えない寂しさも感じていたのだそうです。ある日彼が外から帰り、部屋でひとり過ごしていた時、そばに誰かがいるのを感じます。それは彼をあたたかく包むようなお方で、その夜、彼は自分の強情をおわびし、イエス様を迎え入れたのだそうです。
「あなたの名は何というのか」(27節)と、ヤコブは問われます。「あなたは何者か?」という問いかけです。あなたには、「自分とは何者か?これからどうするのか?」と考えたことがありますか?人から聞いたイエス様を、自分もその人を通して信じているというところから、自分で『聖書』を読み、ひとりで神様の前に出たことがありますか?ヤコブにとって、この時がそうでした。「彼は言った。『ヤコブです』(27節)」。「私はヤコブという名前の通り、人を押しのける者です」と、神様の前で自分の姿に気づかされて認めること、これが兄との仲直りの前に必要でした。今の私たちひとりひとりにとっても、また、国と国との和解においても、自分たちが何者であるかに気づかされる必要があるのではないでしょうか。
Ⅲ.むすび
悩みや挫折がないのは楽です。しかし、それでは「自分とは何者か」に気づかされることもないかもしれません。挫折や悩みの時、心配や不安な時、近づいてくださる「ある人」がいます。私たちのためにこの世に来て下さったイエス様です。イエス様の前で「自分とは何者であるか」に気づかされ、神様を侮らず、人と自分を比べるのでなく、神様からいただいた自分を生きる今週でありますように。
(記:牧師 小暮智久)