2024年5月19日 礼拝説教 「聖霊が来られて」

聖書: 使徒の働き 2章 1~14節

Ⅰ.はじめに

 教会に集まって礼拝できるのは、「あたりまえ」ではなく、「ありがたい」(有難い=有るのが難しい)ことなのだと思います。コロナ禍を経験する前にもそう思っていましたが、コロナ禍を通ってからはより強く実感するようになりました。教会に集まれることを、神様の恵みとして「ありがたく」感謝して、日曜日、主の日を迎えたいと願っています。

 今日はキリスト教会の暦では「聖霊降臨日」です。「ペンテコステ」とも呼ばれます。これは「50」という意味で、ユダヤでは「過ぎ越しの祭り」から50日目、小麦の収穫の初穂を神様にささげる日が「ペンテコステの祭り」「五旬節」と呼ばれました。今から約2000年前のその日は、イエス様が死から復活された日から50日目の日曜日でした。今年のイースターは3月31日、その50日後が今日です。この日に起きたことと、今の私たちとのつながりを、みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.集まっていた人々(使徒の働き 2章1~4節)

 「皆が同じ場所に集まっていた」(1節)とあります。コロナ禍で「人が集まるのを避けるように」と言われたからか、私は『聖書』を読む時、以前よりも「集まる」という言葉が目に留まるようになりました。約2000年前のこの日、集まっていた「皆」とはどんな人々でしょうか?それは、補充されたマッティアを含む12人の使徒をはじめ、おそらくイエス様の母マリアやイエス様の兄弟たち(1:14)もいたでしょうし、「百二十人ほどの人々」(1:15)の何人かも含まれると思われます。集まっていた場所はどこか?1:13の「屋上の部屋」、そこは最後の晩餐が行なわれた部屋とも言われ、そこの可能性が高いかと思われます。

 そこに集まっていたイエス様の弟子たちの以前の姿が「福音書」に書かれています。それは、イエス様が言われることがわからなかったり、イエス様が一緒なのに恐れたりしたことなどです。中でも「誰が一番偉いか」と議論する弟子たちの姿は印象的ではないでしょうか。「使徒の働き」の著者ルカが書いた「前の書」(1:1)、つまり「ルカの福音書」でそのような場面は2回あります(ルカ9:46,22:24)。しかも、22:24は最後の晩餐の時で、弟子たちはイエス様が十字架で死なれる前夜に及んでもなお、「誰が一番偉いか」と議論していたのです。その心にあったのは何か?皆の中で一番になりたい、力を持ちたい、メンバーを支配したい思いと言えるでしょうか。そのような思いは私たちにもあるでしょうか?

 しかし、イエス様の復活後、弟子たちは少しずつ変えられていきました。イエス様が天に上げられてからは、「誰が一番偉いか」と議論した同じ部屋で、心を一つにして祈るようになったのです(使徒1:14)。その「最後の晩餐」と同じ部屋にいたであろう彼らに、風のような響きが起こり、炎のような舌が現れ、「皆が聖霊に満たされ」(2:4)たのでした。イエス様が約束された「聖霊によるバプテスマ」がなされ、聖霊が弟子たちにくだられたのです。「聖霊に満たされる」とは「聖霊に支配される」ということです。以前は、自分が一番偉くなり支配したいと思っていた彼らが、聖霊に支配されたのです。そして、どうなったか?「御霊が語らせるままに…話し始めた」(4節)。自分が話したいことではなく、聖霊が話したいと願うことを、つまり、イエス様のことを話し始めたのです。恍惚とした状態ではありません。各自の個性や意志は自由のままで、人がわかる言葉を話したのでした。今も聖霊は、自己中心の思いから私たちを解放し、イエス様へと心を向けてくださいます。

2.集まって来た人々(使徒の働き 2章5~13節)

 弟子たちがいた家での物音を聞き、大勢の人々が集まって来ます(6節)。どんな人々か?それは、「敬虔なユダヤ人たち」(5節)です。「旧約聖書」を重んじ、ユダヤ教を信じる人々です。しかも、彼らは様々な国で生まれて、エルサレムに移住、滞在していた人々でした。弟子たちが話すのを聞いた彼らの反応は、「驚き」(7節)や「あざけり」(13節)などでした。

 「驚き」の理由は何か?それは、弟子たちが、様々な国で生まれたユダヤ人のそれぞれの国の言葉でイエス様のことを話したからです(6~8節)。たとえば、ペテロは習ったことがないのにエジプト語で、ヨハネはローマの言葉で、ヤコブはアラビア語でというふうに、そこにいた人々の母国語でイエス様のことを話したのでした。彼らの出身地の広がりは9~11節に記されています。それは、エルサレムから見て、北東の国々、北西の地方、南のアフリカ大陸、はるか西のローマなど、東西南北、かなり広い範囲です。

 この人々は「敬虔なユダヤ人」で、「旧約聖書」を知っていました。このあと2:14以降でペテロが「イエス様がキリスト」と証言するために「旧約聖書」のヨエル書、詩篇などを引用したのもうなずけます。弟子たちの話は彼らにどう響いたか?「神の大きなみわざを語るのを聞くとは」(11節)とあります。弟子たちが様々な国の言葉で話すのを驚いただけでなく、その内容が「神の大きなみわざ」だと伝わったのでした。「誰が一番偉いか」と言っていた弟子たちが「神の大きなみわざ」を語る。聖霊なる神様は、「神の大きなみわざ」を、イエス様の十字架と復活による救いのみわざを、私たちにも語らせてくださいます。

3.語りかける人々(使徒の働き 2章14節)

 呆気にとられ(6節)、不思議に思い(7節)、当惑し(12節)、「新しいぶどう酒に酔っているのだ」(13節)とあざける者たちもいたという大勢の人々に、語りかける人々がいます。14節を読みましょう。「声を張り上げ、人々に語りかけた」のはペテロですが、「11人とともに立って」とあるように、これはマッティアを含む12使徒が一緒に語りかけたと言えるのではないでしょうか。聖霊が彼らに「旧約聖書」の言葉を思い起こさせ、それをイエス様の十字架と復活とに結び合わせ、人々によくわかるように話させてくださったのです。聖霊が結び合わせた「12使徒の集まり」として、人々に語りかけたのです。イエス様を3回知らないと言ったペテロのことを思い出すまでもなく、以前の弟子たちの姿からは考えられないようなことがここに起きています。これこそ、聖霊の働きではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 約2000年前の今日、来られた聖霊なる神様は、イエス様を信じたすべての人のうちに住んでいてくださいます(Ⅰコリント3:16)。そして、私たちは聖霊によって結ばれて、「一つのからだ」となりました(Ⅰコリント12:13)。聖霊によって私たちは、競い合う関係ではなく、尊重し合い補い合う関係とされています。聖霊によって結ばれた神の家族として、聖霊が語らせるままにイエス様を証しさせていただくお互いとされましょう。

(記:牧師 小暮智久)