2024年5月12日 礼拝説教 「愛する子よ」
聖書: ルカの福音書 15章25~32節
Ⅰ.はじめに
今日は「母の日」、この教会では「両親の日」として覚えて礼拝しています。私の場合、2年前の3月に父が、5月に母が相次いで主のもとに召され、さびしい思いもありますが、ふり返ると、親の愛はやはりありがたいなあと実感します。
毎週日曜日朝9時からの教会学校では今、「イエス様のたとえ話」をともに聞いており、今日は「息子を待つ父のたとえ」というお話です。親と子の関係、親の愛と子どもの姿を通して、神様とはどんなお方か、神様と自分は今どのような関係か、と思いをめぐらすことは「両親の日」にふさわしいと感じています。みことばに共にお聴きしましょう。
Ⅱ.みことば
1.これは何事か(ルカの福音書 15章25~27節)
おうちで『聖書』を読んでいますか?『聖書』は神様のことばなので、読むと神様の心が伝わってきます。神様との関係が親しくなるために、「週報」にある「今日のみことば」で『聖書』を毎日読みましょう。その読み方ですが、例えば今日お聴きした「たとえ話」では、イエス様が誰に対して話したのかに注目するとわかりやすいです。15:1~3を読みましょう。イエス様のそばには「罪びと」と呼ばれ、人々に嫌われていた人が集まっていました。それを見てリーダーたち(パリサイ人、律法学者)は、「罪びと」と一緒に食事をするのはよくないと文句を言いました。イエス様は、その文句を言ったリーダーたちに向かってこのたとえ話をされたのです。最初は「いなくなった羊」のお話(15:4~7)、次は「なくなったお金」のお話(15:8~10)、そして、「いなくなった息子」のお話(15:11~32)です。これらのお話で「いなくなった羊」や「家を出た弟息子」は当時のリーダーたちが嫌っていた「罪びと」をあらわし、帰って来たのを喜ぶ人は「神様」をあらわしています。
この「いなくなった息子」の話の後半に出てくる「兄息子」(25節)は誰をあらわしていると思いますか?そうです。『聖書』をよく知っていて、「罪びと」と仲良くするイエス様に文句を言ったリーダーたちをあらわしています。つまり、このたとえ話は、文句を言った人々に対するイエス様の答えであり、ポイントは兄息子に対する父親の態度にあります。
「兄息子」はいつものように、畑で草をぬいたり、水をやったりしてまじめに働いて疲れて帰って来ました。「家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた」(25節)のでした。「あれっ?いつもと家の様子がちがうぞ」。「これはいったい何事か」(26節)としもべに聞くと、どんな答えだったでしょうか?27節を読みましょう。「もうずいぶん前に、お父様の財産を分けてもらって家を出ていなくなったあなたの弟さんが、無事帰って来られたので、そのお祝いです」と言われたのです。なぜ帰って来たか。それは13~19節で言われている通り、遊んでお金を使い切ったあと、ききんが起こり、困り切ったからでした。そんな身勝手な弟息子をお父さんは何も怒らず、喜んで家に迎え入れ、お祝いをしていたのでした。これは、神様の姿をあらわしています。私たちはこれをどう感じるでしょうか?
2.兄の怒りと父親の心(ルカの福音書 15章28~32節)
これを聞いて兄息子は怒り、家に入ろうとしませんでした。怒る兄をなだめるお父さんは、神様の姿をあらわしています(28節)。兄の怒る気持ちはよくわかるのではないでしょうか。29~30節を読みましょう。「自分は長い間、お父さんのもとで働き、戒めを破ったことは一度もないのに、友だちと楽しむようにと、おいしいものをくれたことがない。なのに、まじめに働かず、遊んで暮らして、お父さんの財産をなくした息子が帰って来るとごちそうでお祝いするなんて、おかしいよ!不公平だよ!」。そんな気持ちでしょうか。兄は、ほんとうは自分の弟なのに自分とは関係がないかのように「財産を食いつぶした息子」「そんな息子」(30節)と呼んでいます。イエス様は、『聖書』の戒めをまじめに守っている当時のリーダーたちに、「わたしが『罪びと』と呼ばれる人たちと共に食事をすることに文句を言う君たちの気持ちは、この兄の気持ちと同じなのではないか」と言われたのです。
「まちがっている!不公平だ!『罪びと』が帰って来たのを、どうしてこんなに喜ぶんだ?」と怒る兄に、父は、つまり、神様はどう言われたでしょうか?31節を読みましょう。「子よ」(31節)という呼びかけに、この父の愛は、そして、さきほどの怒りへの答えは、すべて込められているように思えます。父は兄息子に「子よ」と呼ぶことで、自分のすべての愛情はお前に注がれていると言いたかったのではないでしょうか。しかし、この兄息子は、父の愛情を実感することなく、ただ義務的にその言いつけに従っていたのでしょう。兄息子は父親のすぐそばにいましたが、心は遠く離れていて、弟と同じように「いなくなっていた息子」だったのです。それは当時のリーダーたちが『聖書』の戒めをきちんと守っているけれど、そこには喜びがなかったのと重なります。神様に愛されていると実感できなかったのです。愛されているから喜んで神様に従う、自分も神様を愛し、大切にするという関係ではなかったのです。この「子よ」という呼びかけは、「あなたを愛していることを実感してほしい」という神様の私たちひとひとりに対する招きではないでしょうか。32節を読みましょう。「おまえの弟」(32節)と父は言いました。「帰って来たのは他人でなく、おまえの弟だよ」と父は言いたかったのでしょう。「罪びとと呼ばれる人であっても、あなたの弟ではないか。その弟がいなくなっていたのに見つかったのは、死んでいたのに生き返ったようなものだから、『喜び祝うのは当然ではないか』(32節)」と父は兄息子を説得するのです。兄が納得したかどうかわかりません。しかし、このたとえ話がこの問いかけで終わるのは、神様が今も私たちに「どんなに罪深く、身勝手で、嫌われている人でも、わたしは愛している。その人が自分のもとに帰るのを喜ぶ。このわたしの愛の広さ、深さをわかってほしい」と説得していることを示しています。
Ⅲ.むすび
この「息子を待つ父のたとえ」のお話で、父親は神様をあらわしています。実際に父の元から離れて勝手気ままに過ごした弟息子も、いつもそばにいるけれども心は父親から離れ父の気持ちがわからない兄息子も、どちらをもあきらめずに待ち続ける神様の愛が、このたとえ話に描かれています。それは、神様のひとり子であるイエス様が、私たちの罪のために十字架で死なれ、3日目に復活されたことにあらわされている愛です。神様は、私たちがとても受け入れられない人であっても、イエス様を救い主と受け入れてご自分のもとに帰って来たならば、さきほどのお父さんのように大喜びされるお方です。そのような限りのない愛が、自分にも注がれていることを実感していますか?今週、神様に愛されている子どもとして、神様が喜ぶことをともに喜ぶ者とされましょう。
(記:牧師 小暮智久)