2023年12月17日 礼拝説教 「小さな町から世界へ」

聖書: ミカ書 5章1~4節

Ⅰ.はじめに

 クリスマス、それは小さな者に大きなプレゼントが届けられた日ではないでしょうか。それは、その出来事が起こる約700年も前から、どこで起きるかが約束されていたのです。さきほど共にお聴きした『聖書』の言葉は、その約束です。もう一度見てみましょう。

Ⅱ.みことば

1.包囲される大きな町(ミカ書 5章1節)

 『聖書』は遠い昔に書かれた、66の文書の集まりですが、無関心ではいられないような親しさと魅力を感じさせる不思議な本です。その中の「ミカ書」は、紀元前700年頃に本当にいたミカという名前の人に神様が預けた言葉です。ミカはその言葉を神様から預かり、そのままを人々に伝える「預言者」でした。ミカが当時預かった「今、軍勢をなす娘」とか「私たち」とは誰を指しているのでしょうか?

 この場合には前の文章で「娘」と呼ばれているのは「シオン」(4:10,13)です。では、「娘シオン」とは誰か?それは、エルサレムの町の人々のことです。人々で賑わうこの大きな町は将来、敵に囲まれる。「包囲網が私たちに対して設けられた」(5:1)とは、将来、エルサレムが敵の軍隊に包囲されることの予告です。これがミカに預けられた神様の言葉でした。神様に愛されたはずのイスラエルの首都エルサレムがなぜ、敵に囲まれ、その町の人々は外国の「バビロンまで行く」(4:10)と言われたのか?それは当時の人々が、この世界を造り、アブラハムを選び、モーセによってエジプトから導き出した主なる神様のみを拝むと契約を結んだのに、それを破り、人間が作った神々を拝むようになったからです。契約に違反した際には外国に捕え移されると約束された通りに、主なる神様はエルサレムになさったのでした。せっかく、神様に愛され、導かれたイスラエルの人々とその首都エルサレムは、これで終わりなのでしょうか。

2.小さな町から始まること(ミカ書 5章2~4節)

 それで終わりではないことが、続いて語られています。「ベツレヘム・エフラテよ」(5:2)と、今度は「ベツレヘム」という町に呼びかけられています。この町はエルサレムとは対照的に「ユダの氏族の中で、あまりにも小さい」と言われる町です。「イスラエルを治める者」が将来、大きな町エルサレムではなく、そこから南へ8kmの所にある小さな町ベツレヘムで、「わたしのために」と言われたように、神様ご自身のために生まれると言われています。

 それはいつか?3節を見ましょう。イスラエルの人々は今後、しばらくは外国に渡されて捕囚となります。そのあとがベツレヘムで新しい王が生まれる時なのです。その後に散らされた人々がイスラエルの子孫のもとに帰ることが約束されています。

 小さな町出身のこの新たな王は、私たちをどのように治めるのでしょうか?4節を見ましょう。ここには、力と慈愛の美しい調和があります。強い力と優しさとは、なかなか両立しないものです。しかし、この王は、神様の力によって私たちを養い、安らかに過ごせるように心を配るのです。しかも、この王による統治は小さな町ベツレヘムから始まり、「地の果ての果てまで及ぶ」(4節)のです。この統治のことを、『聖書』は「神の国」と呼びます。

 この「神の国」はこの約束の通りに世界に広がり、戦国時代にはすでに日本にも来ていました。1568年の織田信長と大和国の大名・松永久秀の戦いでの出来事を、日本にいたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記録しています。織田と松永のそれぞれの軍勢にキリシタンの武士が大勢いることが互いにわかり、キリシタンは神の愛で結ばれていることを他の人々に示そうとクリスマスに大広間に集まった時のことをフロイスはこう記録しています。「ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻って来た。・・・彼らは自分の家から多くの種々の料理を持参させて互いに招き合った・・・その際給仕したのは武士の息子たちでデウス(神)のことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした」(『完訳フロイス日本史②』からの引用,『百万人の福音』2014年12月号,p.13-14)。戦国時代に日本で実際にあったクリスマスの休戦です。これも、ベツレヘムで生まれた新しい王による統治、「神の国」の姿ではないでしょうか。フロイスは「互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国主の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応接した」とも記録しています。特に「あたかも同一の国主の家臣であるかのように」という様子は、まさに神が国主である「神の国」の実現ではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 『聖書』の前半部「旧約聖書」は、神様がこの世界を造り、ご自分を指し示すかたち(アイコン)として造ったアダムとエバにこの世界を管理させようとしたと告げます。アダムとエバを信用していたのに背かれた神様は、相当に破損したご自身のかたち(アイコン)を回復させ、罪と滅びから解放するために、アブラハムとその子孫イスラエルを選び、全人類のための計画を実行されます。選んだイスラエルに何度裏切られても、私たち人間のご自分を指し示すかたち(アイコン)を回復させて、新たな王による統治を喜んで受け入れられるようにと、神様は小さな町ベツレヘムにその王が生まれることを約束されました。『聖書』の後半部「新約聖書」は、ベツレヘムに生まれたイエスこそ、神が約束された新たな王だと告げます(マタイ2:4~6)。このイエス様は「旧約聖書」の約束通り、十字架で私たちの背きの罪を背負って死なれ、3日目に死から復活させられて、罪と死に勝利された王であることが公示されました。このイエス様を自分の王として迎える時、私たちは「教会」というこのお方の国民に加えられます。私たちは神様を指し示す本来のかたち(アイコン)に回復され、再び来られるイエス様を共に待ち望みつつ、神様の代理としてこの世界を管理するための労働に携わり、家庭や地域などの共同体の絆を深めつつ、日々を生かされていくのです。小さな町でお生まれになったイエス様を、力と慈愛によって統治される「神の国」の偉大な王として自らに迎え、「神の国」の国民とされ、私たちはどこででも「教会」の一員、「神の国」の国民として、このお方を指し示して過ごしましょう。

(記:牧師 小暮智久)