2023年11月26日 礼拝説教 「十字架と私たち」
聖書: ルカによる福音書 第23章32~43節
Ⅰ.はじめに
教会と言えば十字架、十字架と言えば教会というイメージでしょうか。この「十字架」とは何でしょうか?今の私たちと、どのようなつながりがあるのでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.十字架につけられた人々(ルカの福音書 23章32~38節)
先ほど共にお聴きしたのは『聖書』に収められている「ルカによる福音書」という約1900年前に書かれた文書です。ここには、当時のローマ帝国が犯罪者に対する刑罰として執行した西暦30年頃の「十字架刑」の様子が記録されています。ローマ帝国は当時、地中海を囲むように、今のローマを中心に、北はフランス、西はスペイン、南はアフリカの北海岸、東は今のシリア、パレスチナを支配していました。「ルカの福音書」が告げるのは、ローマ帝国のユダヤ州の都エルサレムという町の郊外の「どくろ」と呼ばれていた処刑場での死刑の様子です。32~33節を聴きましょう。十字架とは、犯罪者の死刑の方法だったのです。「キリスト」と呼ばれるこのイエスは、他の犯罪人と共に、まるで犯罪者のひとりとして十字架につけられたのでした。イエスは何か犯罪を行なったのでしょうか?
キリストの処刑について『聖書』以外に記録があるでしょうか?タキトゥスというキリスト信徒ではない歴史家が西暦115年頃に書いた『年代記』(和訳は岩波文庫)は、迫害されていたキリスト者の由来をこう記しています。「彼らの名前はキリストに由来する。彼はティベリウスの治世に総督ポンティウス・ピラトゥスの判決によって処刑された」。キリストと呼ばれるイエスは実在の人物であり、その十字架刑も歴史の事実なのです。
では、キリストが十字架で処刑された出来事は、今の私たちとどんなつながりがあるのでしょうか?今日は、淵田美津雄という人の証言を聴きましょう。日本は今年、敗戦78年です。淵田美津雄さんは1941年12月8日、アメリカのハワイの真珠湾を爆撃した爆撃隊の総指揮官です。戦後、淵田さんは日本人捕虜に親切を尽くしたアメリカ人女性が宣教師の娘で「私の両親はフィリピンで日本軍に殺されましたが、その直前に両親は敵のために祈りましたから、親切にしているのです」という話を聞きます。次に、東京初空襲の爆撃手で日本の捕虜となり、戦後来日したデシェーザー宣教師の「わたしは日本の捕虜でした」という手記を受け取り、『聖書』を読み始め、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが、分かっていないのです」(34節)というキリストの祈りが自分のためでもあったと知り、イエス・キリストを救い主として受け入れたのでした(『真珠湾からゴルゴダへ』p.9-13)。このキリストの祈りは、今の私たちひとりひとりのための祈りです。
2.報いではなく、恵みによって(ルカの福音書 23章39~43節)
死刑を受けている人々の会話の記録は珍しいのではないでしょうか。39節を見ましょう。「おまえはキリストではないか」。これは信仰の表明ではありません。証拠を求める疑いの言葉です。「神がいるならば、なぜ、この世界や人生には不条理と思える災害や病気があるのか」という問いとも似ています。特に私の心に残るのは、イエス様はこの疑い、証拠を求める問いを否定されなかったという事実です。イエス様はこの人に言い返さず、説得もせず、だまって聞いておられました。同じような気持ちでいる人々のそばで、イエス様はその苦しみや疑問をだまって聞いておられ、受け止めておられるのではないでしょうか。
もう一人はたしなめます(40-41節)。同じような犯罪を行ない、同じ刑を受けている最中に、この人はなぜ、こう言ったのでしょうか。「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」(41節)。そして、報いでなく恵みに頼ります。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」(42節)。思い出すか否かはイエスにおまかせし、自分の願いを伝えたのは、自分にはその資格はないが、このお方なら自分をおまかせできるという信頼ではないでしょうか。
私がこのキリストというお方のことを初めて聞いたのは、幼稚園から小学2年の間、宮城県仙台市に住んでいた頃、母と散歩をしていくつものお墓が公園の中に立っている所を通って、十字架の形のお墓があり、「あれは何?」と聞いた時のことでした。その後、埼玉県所沢市に転居し、ななめ隣に住んでいたのがデシェーザー宣教師ご一家でした。教会学校に通い始め、キリストのお話を聞きましたが、よくわかりませんでした。私には生まれつき尿道の障害があり、立って用を足せませんでした。学校でからかわれるのがいやでトイレをがまんし、帰り道の人目につかない所で用を足したみじめさ。長い休みのたびに入院して何度も手術を受けましたが治らないつらさ。からかわれ、いじめられ、言い返せない原因は自分にもあったと思いますが、「なぜ自分だけがこんな目にあうのか」と親に文句を言ったこともありました。今思えば、親もつらかったと思います。しかし、そんな小学4年の時、キリストが十字架にかかられたのは私たちのためだったと聞きました。自分のことしか考えられないわがままな私のために、キリストは十字架で痛みと苦しみを受けてくださった。すべてがわかったわけではありませんが、その日、私は自分をキリストにまかせ、イエス様を救い主として受け入れたのです。自分のことしか考えられず、自分の体や親に不満をもち、からかいいじめる人たちを憎むだけで何もしようとしない自分は、天国に迎えられ資格は全くなく、滅びることが神から受けるべき当然の報いでした。イエス様は自分をゆだねた犯罪人に「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(43節)と言われました。「パラダイス」とは「園」「楽園」という意味合いで、「エデンの園」を思わせます。神様が天の父としていつも共にいてくださる所。その日以来、私にも、資格や報いでなく、ただキリストの恵みによって天国に迎えていただける安心と、いつも神様がお父様として一緒にいてくださる日々が備えられたことを感謝しています。
Ⅲ.むすび
「十字架」とは何か?キリストは罪のないお方なのに、なぜ、「十字架」で死刑にされたのか?その答えは『聖書』にあります。「旧約聖書」はこの世界と動植物や私たち人間を造られたのは神様だと告げます。人間は与えられた自由意志でこの方に背きわがままに生活し始めますが、神様は見捨てず、アブラハムとその子孫イスラエルの民から救い主が生まれ、全人類のために死に、復活するという救いの計画を立て予告します。「新約聖書」はその予告はイエスにおいて実現したと証言するのです。「父よ、彼らをお赦しください」とのキリストの祈りは自分のための祈りだと受け取られるでしょうか。
(記:牧師 小暮智久)