2023年10月29日 礼拝説教 「神の手」

聖書: サムエル記 第1 5章1~12節

Ⅰ.はじめに

 この教会の礼拝では、『旧約聖書』の「サムエル記」を昨年1月から少しずつお聴きしており、今日は久しぶりに8月20日の続きの所です。時は紀元前1050年ごろ、所は西アジアのイスラエルとガザの今も戦いが行なわれているあたりです。今から約3000年前にもイスラエルの民はペリシテという民族と戦っておりました。ペリシテということばからパレスチナということばが出てきたのだそうです。イスラエルの民は「神の箱」さえあれば、戦いに勝てると思っていました。「神の箱」とは、神様はイスラエルに与えられた十戒の石の板、芽を出したアロンの杖、不思議な食べ物であるマナが入ったつぼが入っており、神様がそこにおられるしるしでした。しかし、イスラエルの民は「神の箱」を偶像のように考えてしまい、それさえあれば戦いに勝てると思い込んだのです。結果は敗北でした。単なる敗北ではなく、「神の箱」まで、ペリシテ人に奪われてしまったのです。それからどうなったのでしょうか?歴史的な事実として起きたこの出来事を追跡し、今の私たちに神様は何を語ろうとしているのか、思い巡らしましょう。

Ⅱ.みことば

1.神の箱の衝撃(サムエル記 第1 5章1~5節)

 ペリシテ人に奪われた「神の箱」はどこへ行ったのでしょうか?1節をお読みします。アシュドデとは、ちょうど今のガザのあたり、正確にはガザの少し北にある町です。ペリシテ人たちは「神の箱」を「ダゴンの神殿」に運んで来ます。「ダゴン」とは、ペリシテ人たちが拝んでいた神の名前で「穀物」ということばから来ているようです。日本で言えば「五穀豊穣の神」でしょうか。ダゴンの偶像がまつられていた場所、それが「ダゴンの神殿」です。「神の箱」はまるで、ペリシテ人たちの戦利品のように、捕虜のように、そのダゴンの神殿の中のダゴンの像のかたわらに置かれたのでした。

 そこから、この「神の箱」は動き出します。実際に動くというよりは、不思議な働きを周囲にもたらすのです。3節をお読みします。「翌日、朝早く起きて見ると」というのは、いつものように人々が神殿に行ってみると、ということでしょう。なんと!「ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた」(3節)のです!ちょうど、「神の箱」の前に、ひれ伏し、拝むかのような姿勢で、ダゴンは倒れていたのでした。

 そこで人々はどうしたか。ダゴンの像を取り、元の場所に戻した。そうなのです。偶像は人に動かしてもらわなければ、戻れないのです。『聖書』は偶像の無力さ、それを拝むことのむなしさを次のように述べています。エレミヤ10:3~5をお読みします。

 その翌日、何が起きたか?4節をお読みします。同じように、うつぶせに倒れているだけではありません。ダゴンの頭と両手は切り離されて、敷居のところにあり、胴体だけが「神の箱」の前にあったのです。ここから一つの習慣が生まれました。5節をお読みします。このような習慣が当時のペリシテ人に広まったほどに、これは事実であり、「神の箱」がもたらした衝撃はこれほどに大きかったと言えるのではないでしょうか。

2.人々に起きたこと(サムエル記 第1 5章6~12節)

 「神の箱」の衝撃は、ダゴンの神殿だけにとどまりませんでした。今度は「主の手」という表現が繰り返されるのが印象的です。人々に何か起きたのか?6節をお読みします。人々のからだに「腫物」、はれものができたのです。おそらく、痛みや苦しみをもたらし腫物でしょう。それは、ダゴンという偶像を拝む人々に対する神様の怒りと言えるのではないでしょうか。この世界を造られた神様は、知性や感情や意志という「人格」をお持ちです。神様は私たちを造られた方であるゆえ、私たちを愛しておられます。しかし、私たちがこの神様を無視し、偶像を神に祭り上げたり、神様に無関心であったりするなら、私たちに対して怒られるお方なのです。

 アシュドデの人々はこの有様を「神の箱」のせいだと考え、別の場所へ移します(7,8節)。次の場所はガテという町でした。何が起きたか?9節をお読みします。「神の箱」が、とは言われず、ここでも「主の手は」と書かれています。やはり、人々に腫物ができた。それで、ガテの人々はエクロンという町に「神の箱」を送ります(10節)。まるで、「神の箱」のたらいまわしです。結論としてどうなったか?11節をお読みします。「神の箱」をこのペリシテ領内にとどめておいてはならない。イスラエルの元の場所に戻っていただこうということになったのです。

Ⅲ.むすび

 約3000年前にほんとうにあった出来事は、今の私たちに何を語っているのでしょうか?

 ひとつには、イスラエルの神は、イスラエルの国だけで力を発揮し働くことができるお方ではなく、ペリシテという外国でも力を発揮されたのだということです。その際、「神の箱」を通じて、神様はご自身の存在と働きをあらわされたのでした。

 もうひとつには、この神様以外を神とする人々に神様が災いをもたらしたのは「主の手」(6,9節)、「神の手」(11節)と言われていることです。『聖書』が示す神様には、実際には手や足などの目で見えるかたちはありません。しかし、私たち人間に身近に感じられるように人間のからだの部分が、神様を示す表現として使われるのです。「主の手」は罪をさばくためにも動きますが、同時に私たちを導く「手」でもあります。今日、説教前に歌った讃美歌285番でも「主よ、み手もてひかせたまえ」とありました。主の手は、私たちを主の道を歩めるように引いてくださる手」です。説教後の讃美歌294番でも「みめぐみゆたけき主の手にひかれて」と歌われます。「恵み豊かな主の手」とは、やはり、十字架と復活の主イエス様の御手でありましょう。私たちひとりひとりのために十字架で死んでくださり、3日目に復活された主イエス様を仰ぎ、恵み豊かな主の手にひかれて、今週の一日一日を歩ませていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)