2023年10月15日 礼拝説教 「イエス様とは?」

聖書: ルカの福音書 5章 17~26節

Ⅰ.はじめに

 教会に初めて行った時、何がなんだかわかりませんでした。本が2冊ありました。一つは歌の本でした。私が初めて行ったのは子どものころ、家のとなりの宣教師の奥さんにさそわれてでした。歌の本は「さんびか」と言って、神様をほめたたえる歌や神様がどんなお方かなどを歌った楽譜の歌集でした。もう一つは『聖書』でした。『聖書』は神様からのお手紙だと教えられました。お手紙には書いた人が知らせたいこと、してほしいこと、してほしくないことなどが書かれています。それと同じように『聖書』には、神様が私たちに知らせたいこと、してほしいこと、してほしくないことなどが書かれているのです。

 子どもと大人の合同礼拝では、教会学校の『聖書』の箇所から神様のことばをお聴きしています。教会学校は今、「神の子イエス」という単元で、「主イエスの働きを知り、救い主と信じて従う」ということが目標です。今日は、「イエス様とはどんなお方か」「イエス様を信じるとはどういうことか」を『聖書』に聴き、共に考えてみましょう。

Ⅱ.みことば

1.運ばれて来た人と私たち(ルカの福音書 5章17~19節)

 今から約2000年前の西アジア、ガリラヤ地方のある町で、おおぜいの人が、イエス様のおられるところに集まっていました(17節)。

 そこで何が起きたのでしょうか?18節を読みましょう。「中風」と言われている、脳内出血の後遺症で身体がマヒしている人を、男たち数人が床に載せて運んで来たのです。

 運ばれて来た人の様子から、私たちと教会との出会い、私たちとイエス様との出会いはどうであったかを考えてみることができます。自分の親がクリスチャンで教会に連れて来られたという人は、運ばれて来たこの人と似ているかもしれません。誰かに誘われて教会に行ったという人もいるでしょう。また、運ばれた人も実は、自分からお願いして運んでもらったのかもしれません。自分から進んで教会に行ったという人もおられるでしょう。

そして、誰かに連れて来られ、さそわれて教会に来た人も、自分から進んで教会に来た人も、実は神様が招き、導いてくださったのではないでしょうか。

 しかし、イエス様の前にその人を置くには妨げがありました。19節を読みましょう。当時の家は屋根が平らで、外側に階段がついていることが多く、屋上にのぼることができたそうです。彼らは家に入れないので、なんと屋上にのぼり、屋根の瓦をはがし、彼の寝床をイエス様の前につりおろしたのです。そこまでしたことには、何があらわれているでしょうか?彼らの熱意、友情、信仰、期待などがあらわれているのではないでしょうか。

2.イエス様とそのことば(ルカの福音書 5章20~26節)

 突然、天井に穴が開き、光が入って来たと思ったら、ベッドが目の前に降りて来る。その部屋にいた人々も、イエス様も、驚いたのではないでしょうか。上を見ると男たちの顔を見えます。「イエスさまー。よろしくお願いしま~す」と叫んでいたかもしれません。

 このとき、イエス様は、何を見たのでしょうか?「彼らの信仰を見て」(20節)とあります。「彼ら」とは誰でしょうか?運んで来た男たち、そして、運ばれて来た人も含まれるでしょう。「彼らの信仰」とは、「ただイエス様のもとへ」という信仰、そこに行けば、あとはイエス様が何とかしてくださるという「信仰」ではないでしょうか。

 ある高校生がイエス様を信じることについて書いた文章です。「私がつまずいたのは『信じる』ということばでした。…自分がふんわりと想像している「信じる」ということを、自分自身できているのかわからなかったのです。…お祈りも、機械的な文句になることが多いです。とにかく神様を疑ってはいないけど、『信じますか?』と聞かれたときに『信じるって何?』となり、足踏みしてしまうのです。…しかし、洗礼の学びの中で、私には自分が自覚できていることより多くの罪があり、でも罪に支配され続けてしまっている。しかし、そんな私のためにイエス様が想像もできない苦しみを背負われて、救ってくださったこと。また、信じる力ではなく、神様にゆだねられることを感謝し、心で受け止めることがイエス様を信じる恵みではないかということを学びました」(『百万人の福音』,2020年3月号,p.14)。「信じる」とは、信じる自分の力ではなく、自分を神様にゆだね、イエス様がくださるものを受け止めることではないでしょうか。

 彼らの信仰を見て、イエス様は、何を告げたのでしょうか?「友よ、あなたの罪は赦された」(20節)という罪の赦しの宣言です。これは、彼らにとって、意外な言葉だったのではないでしょうか。彼らの願いは、中風のマヒが治ることだったでしょうから。一方、イエス様のこの言葉に対して、『聖書』をよく知っている律法学者、パリサイ人たちは、あれこれ考え始めます。21節を読みましょう。「罪を赦すことができるのは神おひとりなのに、この人は何者だ?」と考えたのです。イエス様は、その律法学者、パリサイ人たちに対して言われました。22~24節を読みましょう。表面的に考えれば、「あなたの罪は赦された」と言う方が、ほんとうに赦されたかどうかは見えませんから、「起きて歩け」と中風の人に言って歩けるように治すことよりも、やさしいことです。しかし、イエス様はご自分が地上で罪を赦す権威を持っていることを示すために「罪は赦された」と言われ、イエス様のことばはその通りに実現することを示すために「起きなさい」と言われたのでした。

 この人はどうなったか?25節を読みましょう。信じられないことに、その場で、リハビリもなしに立ち上がり、自分が運ばれて来た床を自分で運んで家に帰って行ったのです。この出来事が、「神をあがめながら」(25節)、「人々は…神をあがめた」(26節)と「神をあがめる」という結果に終わったのが印象的です。イエス様はただ病気を治して満足させるお方ではなく、罪を赦し、神をあがめるように導くお方なのです。

Ⅲ.むすび

 『聖書』はとても分厚い本ですが、その中心はイエス様です。イエス様は、神様から離れてしまった私たちひとりひとりの身代わりとなって十字架で死んでくださり、お墓に葬られましたが3日目に復活されました。このイエス様を救い主と信じる人は、神様とのつながりを回復され、神様の子どもとされ、神様がいつも一緒に歩んでくださり、神様をあがめて生活する人間の本来の生き方へと導かれていくのです。

 今週、信じる自分がどうかでなく、信じる相手であるイエス様のもとで、信頼するイエス様がくださるものを受け止めましょう。

(記:牧師 小暮智久)