2022年11月6日 礼拝説教 「死んだらどうなる?」

聖書: ルカの福音書 23章39~43節

Ⅰ.はじめに

 ロッカーやげた箱など、「4番」というのはいやでしょうか。それとも気にしないでしょうか。病院やホテルなどで「4号室」がない場合があります。「4」は「し」とも読むので、「死ぬこと」につながりそうで、えんぎが悪いということでしょう。私たちはふだん、「死ぬ」ということを、あまり考えたくないかもしれません。しかし、夜ひとりになった時などに考えることがあるかもしれません。あるいは身近な家族や友だちが死んだ時などに、自分は死んだらどうなるのだろうかと、ふと考えるかもしれません。

 死んだらどうなるのでしょうか?自分がまったくなくなってしまうのでしょうか?それとも、死んだあと、どこかにいくのでしょうか?子どものころ、まだイエス様を信じる前、「地獄」のことを聞いたことがあります。うそをついたり、どろぼうをしたり、悪いことをすると、死んだあと「地獄」という所へ行き、えんまさまに舌を抜かれたり、針の山で痛い思いをすると聞きましたが、この世で正直に悪いことをしないようにという戒めかなと思いました。反対に「極楽」のことはあまり聞いた記憶がありません。よいことをすれば行けると聞きましたが、「竜宮城」のようなイメージがわき、飽きてしまわないかなあと考えたことがありました。死んだらどうなるか?『聖書』はどう言っているのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.ふたりの犯罪人(ルカの福音書 23章39~41節)

 「十字架にかけられていた犯罪人」(39節)とあります。「十字架」というのは、約2000年前のローマの国で、人々に見せて行なわれた死刑のやり方です。イエス様の右と左の十字架にかけられたこの二人は相当悪いことをしたのでしょう。『聖書』のほかの所には「強盗」と書かれており、死刑になるということは、「殺人」も犯したのかもしれません。

 そのうちの一人は、となりで同じように十字架につけられているイエス様をののしります。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(39節)と言います。「キリスト」というのは「救う人」という意味です。この人は、自分が悪いことをしたことも、死刑が当然なことも認めていなかったので、「救ってくれ」と言ったのではないでしょうか。

 もう一人はどうしたか?41節をお読みします。この人は、自分が悪いことをしたことも、死刑が当たり前だということも認めています。そして、イエス様は無罪だと認めています。では、なぜ無罪のイエス様が死刑なのか?それは、当時の指導者たちにとってイエス様が生きていると都合が悪かったからです。イエス様は、自分の都合のために無罪の人を死刑にして殺すような、私たち人間の罪の身代わりとして、十字架につけられたのです。

2.イエス様の約束(ルカの福音書 23章42~43節)

 このもう一人の犯罪人は、自分のとなりで十字架につけられているイエス様に話しかけます。42節をお読みします。この人は「御国」ということばを使いました。「御国」とは「神の国」、「神の王国」、神様が王である「国」のことです。死んだあとにはそのような「国」があることをこの人は知っていました。しかし、この人は「私を、その国に、神の国に、天国に入れてください」とは言いませんでした。それはそうでしょう。死刑になるような犯罪人の自分が、天国に行けるはずがない、そんな資格はないと思っていたのではないでしょうか。ですから、「私を思い出してください」と言いました。「イエス様が神の国に入る時に、自分のことを、ほんのちょっとでも思い出してください」と、自分をまかせ、すがるような思いでこう言ったのではないでしょうか。

 イエス様はこの人に話しかけてくださいます。何を言われたのか?43節をお読みします。

 「まことに」と言われたのは、これから言うことが「ほんとうに確か」であり、「とても大切だ」という意味です。「あなたは今日」と言われました。十字架という処刑は、人によっては死ぬまでに数日かかる場合もあったそうですが、この人にとっての「今日」とは自分が死ぬ日を意味したのではないでしょうか。「あなたは死んだらすぐ、パラダイスという場所にいることになる」とイエス様はこの人に約束したのです。「パラダイス」とは「楽園」という意味で、神様が最初に造られた「エデンの園」のような所と言われます。しかも、「わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。ただの「楽園」ではない。「イエス様がともにおられる楽園」。これが「パラダイス」の最大の特徴です。

Ⅲ.むすび

 死んだらどうなるか?私たちは、死んだら「天国」か、「地獄」に行くと考えるかもしれません。しかし、『聖書』によると、そのどちらかに行くのは、イエス様が再び来られて、最後の大審判が行なわれたあとです。イエス様は、私たちすべての人のために十字架で死なれ、墓に葬られ、3日目に新しいからだに復活され、40日を弟子たちと過ごし、天に昇られました。イエス様は再び来られることを約束され、その時から約2000年が過ぎました。いつ来られるのか、誰にもわかりませんが、必ず来られます。もう一度イエス様が来られて「天国」「新しい天と地」が始まるまでの間に、イエス様を信じる人が死んだら、どこへ行くのか?「天国」ではありません。あの犯罪人と同じ「パラダイス」です。イエス様がともにおられる楽園です。世の終わりが来たら、「パラダイス」から「天国」「新しい地」に迎え入れられるのです。誰が「パラダイス」に行けるのか?犯罪人でさえも、洗礼を受けていなくても、イエス様に願っただけで「パラダイス」は約束されました。

 考えてみれば、「パラダイス」にしても、そこにはイエス様がおられ、世の終わりの時から始まる「天国」にしても、そこは神様が王として支配する「神の王国」ですから、神を認める人には幸せで住み心地のよい場所ですが、反対に、神を認めず自分勝手に過ごしたい人には居心地が悪い場所ではないでしょうか。今この地上で、神もキリストも認めない人が死んだら、その人が日頃考え願ってきた通りに神もキリストもおられない場所へ、今の生活でいつもイエス様と一緒にいたいと願うなら、その人が日頃考え願ってきた通りに「パラダイス」へ行く。神様はご自身が王として治める「天国」へすべての人を招いておられますが、私たちの自由意志を尊重され、強制はされません。しかし、今ほんの少しでもイエス様への願いが起こされたら、42節のように祈りましょう。

(記:牧師 小暮智久)