2022年8月7日 礼拝説教 「なぜ一緒に集まるか」
聖書: エペソ人への手紙 5章10~21節
Ⅰ.はじめに
先日、ある方からいただいた暑中見舞いのお葉書の背景に、ひまわりの花がたくさん描かれていて印象的でした。「ひまわり」は漢字で「向日葵」、日に向かう葵(あおい)と書きます。その花が太陽の動きに合わせ、いつも太陽の方を向いているからでしょう。そのあと新聞でひまわり畑の写真を見ました。ウクライナはひまわりから採れる油の一大産地で、ひまわり畑が今満開なのだそうです。鮮やかな黄色の、数えきれないひまわりが画面いっぱいに、ずっとかなたまで続いていて、しかも、それぞれの花は大きさや高さが違っていても、みな同じ太陽の方を向いている景色が写されていました。私たちも、ひとりひとり違っていても、いつも同じ神様の方を向いている、そのようでありたいなあと思いました。
この教会の今年度の総主題は「主に喜ばれる教会」、テーマのみことばは「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい」(エペソ5:10)です。私たちは、主に喜ばれる教会として共に歩み、教会の仲間に加えられた自分として過ごすために、日曜日の礼拝など、一緒に集まることを大切にします。それはなぜでしょうか?共に、主のみことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.暗闇のわざに加わらないため(エペソ人への手紙 5章10~14節)
「何が主に喜ばれることなのか」(10節)を吟味するというと、「一人でじっくりと」というイメージかもしれませんが、それだけでしょうか。続く11節では「実を結ばない暗闇のわざに加わらず」と言われています。この「加わらず」ということばは、「ともに参加せず」という意味です。つまり、暗闇のわざを行なう人々と共に集まらず、仲間にならないということです。ここで言われている「暗闇のわざ」とは、3~4節で言われている「淫らな行い」「けがれ」「むさぼり」「わいせつなこと」「愚かなおしゃべり」「下品な冗談」などでしょう。「彼らの仲間になってはいけません」(7節)と言われています。なぜか?
私たちは誰でも、イエス様を信じる前は、自分がほしいもの、したいことなどが中心で、自分に命を与えて生かしておられる創造者である神様を知らず、この神様に背いて過ごしていました。それでも神様は私たちひとりひとりを愛し、ご自分のひとり子イエス様を救い主としてこの世界に送ってくださったのです。イエス様は、私たちのために十字架につけられ、苦しまれ、死んでくださいました。イエス様は、私たちひとりひとりの代わりに処刑され、墓に葬られたのです。しかし、神様は3日目にイエス様を死から復活させ、罪の処罰が完了したこと、イエス様を救い主と信じる人はその罪をすべて赦され神様の子どもとされること、その人はたとえ死んでも新しい天と地がもたらされる時には、イエス様が復活されたように新しいからだに復活することを保証してくださいました。このように、イエス様を信じた人は神様の子ども(1節)、光の子どもとされた(8節)ので、暗闇を行なう人々の仲間になってはいけないのです。14節の「 」内は当時の讃美歌の歌詞ではないかとも言われますが、暗闇のわざの中で眠っているような人々もイエス様を信じるなら、復活されたキリストが光で照らして、復活の命を与えてくださるという招きと約束の歌です。イエス様を信じた者は、暗闇のわざに逆戻りしないために、キリストのもとに集まりその光に照らしていただき、「何が主に喜ばれることなのか」(10節)を共に吟味するのです。
2.聖霊に満たされるため(エペソ人への手紙 5章15~21節)
「何が主に喜ばれることなのかを吟味」(10節)するために、私たちはなぜ一緒に集まるのでしょうか?それは、聖霊に満たされるためです。
「何が主に喜ばれることなのか」を吟味するには、「自分がどのように歩んでいるか」(15節)、自分の日常生活に注意を払う必要があります。私はよく散歩に出ます(家族には「徘徊」と言われます)。その途中、大きなガラスに自分が映る時、「あ、猫背になっている」と気づくことがあります。自分の日常生活の偏りなどは、自分では気づかないものです。
また「機会を十分に活かしなさい」(16節)とあります。コロナ禍、ウクライナでの戦争、台湾をめぐる中国と米国との緊張、物価高や各地での災害など、困難や問題は数え切れません。「悪い時代だからです」(16節)と言われているのは、この手紙が書かれた西暦60年代の当時だけでなく、今もそうではないでしょうか。パウロがこの手紙を書いたのは、迫害で捕らえられ、牢獄にいた時と言われています。手も足も出ない、お先まっくらとしか思えない中で、「光の子」として、「知恵のある者として」、「機会を十分に活かす」ことを示されたのです。悪い時代だからこそ、困難な時だからこそ、どうするか?17節をお読みします。知恵のある者として、愚かにならないとは、「主のみこころが何であるか」を悟ることです。それは「何が主に喜ばれることなのか」(10節)を吟味することと響き合います。
悪い時代、その濁流に流されそうになります。流されずに踏みとどまり、「何が主に喜ばれることなのか」を吟味するのは、自分の力では不可能ではないでしょうか。どうしたらよいか?18節をお読みします。後半は、1895(明治28)年に始まり日本で最も長く続く聖会の一つと言われ、123回目が先週オンラインでもたれた「関西聖会」のテーマ聖句です。「聖霊の満たし」が必要です。酒に満たされ、支配されるのでなく、御霊と言われる聖霊である神様に自らを任せ、御霊に満たされ、御霊の支配を受け、導いていただくのです。
聖霊は、イエス様を信じた人の内に与えられ、すでに住んでおられます。では、この聖霊に満たされるにはどうしたらよいか?19~20節をお読みします。ここの文章のつくりは、「互いに語り合い」「讃美し」「歌い」「感謝する」ことによって、「御霊に満たされなさい」となっています。「互いに」というのは一人ではできません。「詩篇と讃美の歌と即興の歌」という神様に向かうことばを語り合うことによって、私たちは聖霊に満たされるのです。神様をたたえる内容のことを「互いに語り合い」(19節)、「互いに仕え合う」(21節)ために、私たちは日曜日に一緒に集まります。礼拝においては、主に向かって歌い、感謝し、その後の時間には互いに語り合い、互いに仕え合う。私たちはそのために一緒に集まります。聖霊である神様に満たされて、導かれて、何が主に喜ばれるかを吟味するためです。
歌えない時、感謝できない時もあるでしょう。「詩と賛美と」と言われる『聖書』の「詩篇」には、嘆きや不満のつぶやき、うらみなど様々な感情表現があります。讃美歌にも、讃美の表現だけでなく、さびしさ(39番)、死を願う絶望感(244番)なども歌われています。自分の今の気持ちを表わしている詩篇や讃美歌をもって互いに語り合えるのではないでしょうか。のちほど歌う讃美歌385には「憂いもなやみも 相互(かたみ)に受けて」とあります。憂いや悩みを互いに分かち合う交わりを通して、私たちは聖霊に満たされるのです。
Ⅲ.むすび
8月6日,9日,15日に起きたことは、現代に今も警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。私たちそれぞれの事情の中で、一緒に集まり、主に向かうことばを互いに語り合い、聖霊に満たされ、何が主に喜ばれることなのかを共に吟味しましょう。
(記:牧師 小暮智久)