2022年7月31日 礼拝説教 「神が望んでおられる歩み」

聖書: テサロニケ人への手紙 第1 5章16〜18節

Ⅰ.はじめに

 7月最後の日曜日を迎えました。ようやくコロナも何とか落ち着いて、ちょっとホッとしていたところへ、今回また感染者2万人を超える過去最高の人数となり、大阪府は最大限の警戒体制ということになりました。どこか緊張感のある毎日をお過ごしではないかと思います。そんな中ではありますが、こうして共に主の前に集まる礼拝のひととき、心を主に、みことばの約束に向けたいと思います。

 今朝は有名な1テサロニケ5章のみことばをご一緒に開いています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」愛唱聖句としてこの箇所をあげる方も多いと思うのですが、正直なところ私はあまり好きなみことばではありませんでした。「そんなこと、できるわけがない」と思うからです。私たちの毎日の生活の中で、喜べないこと、到底感謝できないこと、というのは現実にあるわけです。例えば今年3月末から5月にかけて、所沢の両親が1ヶ月半余りの間に相次いで、どちらも突然に亡くなったということは、喜ぶことも感謝することも到底できないことでした。さらに先日私の叔母、母の弟の奥さんがこれまた急に亡くなって、今週私は葬儀のために仙台に行かなければなりません。4ヶ月ほどの間に親戚が3人も急死するって、これは何ということだろう、と今思っています。愛する人が亡くなったとか、誰かが、もしくは自分が病気になった、仕事がうまくいかない、受験に失敗した、失恋した、喜べない感謝できないことは私たちの周りに日常的にたくさんあるだろうと思います。

Ⅱ.みことば

 この出来事、両親の突然の死ということを喜ぶとか感謝するということはできないけれども、1テサロニケ5章のこののみことばの続きには、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」とあります。神さまは、私たちにできないことを要求しておられるのでしょうか?そのように私たちに命じられる神さまとは、どのようなお方なのでしょうか?私たちはどう受け止めたら良いのでしょうか? 皆さんはどう思われますか?

 この手紙を書いたパウロも、受け取ったテサロニケ教会の信徒たちも、迫害という厳しい状況の中にいました。ですから、人間的に考えたらとても喜べるような状況ではなかったと思います。その中でパウロは、その状況を知った上で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について感謝しなさい」と書き送ったのです。

<何を喜ぶのか>

 ここでパウロが言う「喜ぶ」ということは、私たちがこの言葉から思い浮かべるような楽しそうにしている、嬉しい、ということではないようです。パウロはピリピ人への手紙4:4で、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と言っています。このピリピ人への手紙を書いた時にパウロは獄中にいました。ある程度の自由はあったようですが、それでも24時間監視されながら生活することは相当のプレッシャーがあったと思います。パウロが喜びなさい、と言う時、それは私たち人間が持っている自然な感情としての喜びとは違っている、置かれている状況にはよらないこと、私たちが経験するその不幸な出来事やその事柄を喜べ、感謝せよ、ということではないようです。

 神さまは、私たちの痛みや悲しみをすでにご存知です。ですから、喜べない気持ちであるとこと、とても感謝なんてできないことはよくわかっていらっしゃる。私たちは神さまにありのまま、文句や不平を嘆いてもいいのです。神さまどうしてですか、私は喜べません、感謝できませんと言ってもいい。私たちは、それをありのまま申し上げることができる神さまとの交わりの中にいるからです。

 「絶えず祈りなさい」と言われる神さまは、私たちの祈りを聞きたいと願っていらっしゃいます。例えそれがつぶやきであったとしても、私たちに関心を持っていてくださり、私たちが自分の心を神さまに向けることを望んでいらっしゃるお方なのです。私たちにとって真っ暗闇に見える状況に置かれていたとしても、現実問題に押しつぶされそうになっても、神さまが今も生きておられ、心を神さまに向けて神さまとの交わりの中に生きること、それが神さまの願っておられることであり、私たちはそれを喜ぶのです。

 神さまは、私たちを大切に思い、愛しておられるので、御子イエスさまを私たちの元に遣わされました。イエスさまは神であられたのに人としてこの地上での生涯を歩まれ、その愛を惜しむことなく注がれました。こんな人は救われるに値しないだろうと、人の目から見たらそう思えるような人のところにも行かれました。死刑囚の横にも、誰もいけないと思うようなところにも行かれ、最後は私たちの罪の身代わりとして十字架にかかられ、私たちの身代わりとして死なれたのです。そして死から復活なさったことで、神さまと私たちとの和解の道を開いてくださいました。このイエスさまを自分の罪からの救い主と信じ受け入れるなら、私たちは罪赦され、神さまの子どもとされるのです。この十字架のあがないによって私たちは神さまと結ばれました。「キリスト・イエスにあって」結ばれたこの関係のゆえに、私たちは喜ぶのです。神さまはご自分を私たちにあらわしてくださり、御心を私たちに示して私たちの心のうちに働いてくださるお方。

 神さまがどのようなお方であるか、と言うことを、時に私たちは神さまの前に嘆き、不平を言うというような祈りとも言えないかもしれないつぶやきを経て知ることができる、神さまは私たちをよくご存知であり、最善をなしてくださるお方であることに立ち返っていくことができるようになります。全てのことが神さまの御手の中にあることだと受けとめることができるように、神さまの前に祈ることによって私たち自身が変えられていくのです。神さまに立ち返り、神さまとの交わりを喜び、心が開かれて神に向かっていく。いつも喜び、感謝するためには私たちは神さまに祈る必要があリます。

<キリスト・イエスにあって>

 喜び、祈り、感謝と言うのは、これはそれぞれ別々のことではありません。「キリスト・イエスにあって神が私たちに望んでおられること」とありますが、自分の力でそれができるようになるわけではないことを神さまはご存知です。「キリスト・イエスにあって」という言葉が鍵です。キリストが助けてくださるのです。5:23-24には、このように書かれています。「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

 この世界を信仰の目で見ることができたら、変化が起こります。神さまの力がどれほど大きいか、どれほど私を愛してくださっているか、信仰が神さまへの感謝を生み出していきます。私たちそれぞれを召してくださり、救いに導き、ご自身との親しい交わりの中に招き入れてくださった神さまは、真実なお方、神さまが望んでおられるような、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する、みこころにかなった歩みをすることができる者へと神さまご自身が変えてくださる、導いてくださるのです。

Ⅲ.むすび

 ジョン・ウエスレーは、「キリスト者の完全」という本を書きましたが、「メソジストの人柄」と言う文章の中で、この「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」その姿勢、姿こそが、キリスト者の完全、きよめられた人の姿、成熟したクリスチャンであると述べています。テサロニケの教会のように苦難や試練に直面して恐れや悲しみに満ちていたとしても、この神さまの真実な約束の中で、私をお救いくださるイエスさまに信頼して、神さまとの親しい交わりの中にあること、いつも神さまを喜び、神さまに祈り、神さまの御手の中にあることと信じて全てのことについて感謝していく者へと導かれ、神さまのみこころを行うことのできる成熟したクリスチャンとして今週も主の前に歩ませていただきましょう。

(記:小暮敬子)