2022年7月3日 礼拝説教 「愛されているから」
聖書: エペソ人への手紙 5章1~10節
Ⅰ.はじめに
今週は七夕(たなばた)です。先日、あるスーパーマーケットに、子どもたちが願い事を書いた短冊を、笹につけられるコーナーがあることに気がつきました。どんな願い事があるのかなと近づいて読んでみました。すると「はやく戦争がおわりますように」「コロナが終わりますように」、そして、小さな子が書いたと思われる字で「おかあさんとけっこんします」とありました。「願い事を超えて、かたい決意だなあ」とほほえましく思いました。お母さんが大好きで、いつまでも一緒にいたい気持ちがあふれていると感じました。
この教会の今年度の総主題は「主に喜ばれる教会」です。主に喜ばれる教会になりたい、イエス様に喜ばれるような生活をしたいと私たちが願うのは、なぜでしょうか?先月の第1主日は主題聖句5:10に続く所からでしたが、今日はその前の所を共に聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.神に倣う者となる(エペソ人への手紙 5章1~2節)
「神に倣う者となりなさい」(1節)とあります。『キリストにならいて』(14世紀,ドイツ出身のトマス・ア・ケンピス著,岩波文庫)という本はよく知られています(キリシタン時代にすでに日本で読まれていました)。しかし、「神に倣う」という表現は珍しいです。神様はすべてを知り、何でもおできになります。「神に倣って私たちも全知全能に」というのは不可能です。ここで言われている「神に倣う」とは、神様の「愛に倣う」ということでしょう。神様は人をわけへだてなく愛するお方、その愛において完全でありなさいとイエス様は言われました(マタイ5:45~48)。だから「愛のうちに歩みなさい」(2節)と言われます。
では、私たちが「神に倣う者」となれる原動力は何か?神様のように、だれに対しても差別なく愛する力は、どこから来るか?それは「愛されている子どもらしく」(1節)とある通り、神様に愛されている事実、実感から来ます。愛を実感しているでしょうか。自分が神様に愛されているとしみじみと実感することが、神様の愛に倣いたいと願う原動力になる。具体的には、私たちはどのように愛されているのか?2節後半をお読みします。「キリストも・・・私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし」(2節)とあるように、その愛は、イエス様がこの自分のために、十字架でご自分をささげてくださったことに表わされています。「ささげ物」というのはイエス様が生きたその生涯、「いけにえ」というのはイエス様の死を指していると言われます。イエス様の生と死にあらわされた愛によって自分が愛されているという実感が、神に倣う者となる原動力ではないでしょうか。
2.そのために避けること(エペソ人への手紙 5章3~5節)
「愛されている子ども」(1節)と呼ばれている、イエス様を信じる人々のことが、ここでは「聖徒」(3節)と呼ばれています。「聖徒」というと特別にきよい人と思いがちですが、『聖書』で「聖なる」を意味する「聖」は「ほかとは区別された」という意味で、『聖書』とは「ほかとは区別された書物」、「聖日」と言えば「ほかとは区別された日曜日のこと」、「聖徒」とは「イエス様を信じて神の民、神のものとされた人」を指します(エペソ1:1)。
その人は「神に倣う者」となるために何を避けるか?3~4節をお読みします。「淫らな行い」「けがれ」「むさぼり」「わいせつなこと」「愚かなおしゃべり」「下品な冗談」を避けよと言われています。「口にすべきは感謝のことば」(4節)です。なぜ、これらを避けるべきなのか?5節をお読みします。「偶像礼拝者」と聞くと偶像を拝む人を想い浮かべますが、なぜ、「むさぼる者」が「偶像礼拝者」なのでしょうか?偶像礼拝とは自分のための神を作り拝むことです。偶像礼拝の本質とは、自分が欲しい物をまことの神様以上に大切にし、自分の欲望を神としていることだからです(ピリピ3:19を参照)。その人はどうなるか?「キリストと神との御国を受け継ぐことができません」(5節)。神様が王として支配する「御国」(神の王国)を、神様の束縛だと感じて拒否し、神様を支配者として認めたくない人は、神様がそうさせたくても、残念ながら本人の意志で御国を受け継ぐことができないのです。
3.光の子どもとして(エペソ人への手紙 5章6~10節)
私は町会の活動で2か月に1度ぐらいの当番で、青色回転灯のパトカーに乗ってこの湯里地域の防犯パトロールを2人1組でしています。約40分の巡回中に流す録音テープは「オレオレ詐欺に注意しましょう」から「振り込め詐欺」、「還付金詐欺」と色々変わってきました。いつの時代にもだます人はいるものだなと思います。6節を読みます。真実を曲げ、だます人のことが「不従順の子ら」(6節)と言われ、このことばは2章2、3節にもあります。神の怒りは彼らに下るのですが、その人々も、神様の恵みと、イエス様を信じることにより救われるのだと、神様の愛とあわれみの深さが2章には書かれています。
その「不従順の子」(6節)と対比されるのが「光の子ども」(8節)です。「不従順」とは神に従順でないことで、それが「闇」(8節)と言われています。私たちもイエス様を信じる以前はそうでした。ところが、そんな私たちが「主にあって」(イエス様を信じ、イエス様と結ばれて)、今は「光」となりました(8節)。「光の子どもとして歩む」とは、どんな生活でしょうか?9節をお読みします。「善意」「正義」「真実」という実が結ばれていくのが、光の子どもとしての生活です。4、5節で言われていることとは対照的ですね。しかも、もしその「善意」「正義」「真実」が、相手の気持ちや考えを無視した「私の善意」「私の正義」「私の真実」だとしたら、それは押しつけであり、相手のプライドを傷つけ、争いになるかもしれませんね。ですから、これはあくまでも「神に倣う善意」であり、神と等しい御子キリストがへりくだって人となられたことに倣って、「相手を尊重する謙遜な善意」です。
そして、ここで今年度の主題聖句です。10節を読みます。神様に愛されている子どもらしく、神様に倣う者となる。闇から光となり光の子どもらしく歩む。その生活には悪意でなく「善意」、不正でなく「正義」、うそでなく「真実」が現れるはずです。しかも、自分が思う「善意」について吟味が必要です。自分ではこれが常識と思っていても、「何が主に喜ばれることか」と吟味するのです。10節の「吟味」の脚注②のローマ12:2を読みます。そこでは「吟味する」が「見分ける」と訳されています。そのためには自分の「からだ」を神にささげることが必要だと12:1で言われています。それはイエス様がご自分の「からだ」を十字架で、私たちのためにささげてくださったことへの応答です。自分が身につけてきた考え、態度、習慣などについて、「何が主に喜ばれることなのか」と吟味することは、「私を吟味してください」との祈りになるのではないでしょうか(詩篇139:23,24)。
Ⅲ.むすび
「主に喜ばれる教会に」と願うのは、主に愛されている教会だからです。聖餐を受ける中で十字架の主を仰ぎ、自らを主に吟味していただきましょう。
(記:牧師 小暮智久)